3章

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         *  スケッチブックの上を這う鉛筆線をじっと見つめていると、焦点が定まらなくなって途端にぐにゃりと歪んだ。  四月だというのに冷え込む空気に、思わず窓を閉める。心地よかった雑音まで一緒に消え去り、嫌な静けさの広がりに後悔した。 「悩める子羊の筆は重いねえ」  卓上の小さなテーブルで僕の答案に目を通す家庭教師が、楽しそうに呟く。 「あの、男子高校生に子羊って言うの、すごくきつくないですか?」 「僕にとっては子羊同然だよ」 「響島さんだって、僕と三つしか歳変わらないじゃないですか」  言ってから、過ちに気づいた。 「三つも、だよ」 「……そうですね。三年は長い」  長いのに、過ぎ去る一日は早くて、すぐに季節が移ろい変わる。すぐ先の未来もわからないのに、三年後の想像なんて付きもしない。今は、想像もしたくない。  彼は大きく伸びをして、退屈そうに欠伸をする。 「よし、今日の分はおしまい!」 「えっ? まだ時間余ってますけど……」  家庭教師の定時まで、まだ二時間以上残っている。そんな最中、休憩中とはいえ堂々と絵を描いている僕が言えた話ではないのだけれど。 「まあまあ、この成績ならノープロブレム。翔琉くんは元々優秀過ぎたから、少しくらいサボったって何の問題も無いよ」  本当に今日はもう家庭教師をするつもりはないらしく、彼はそそくさと教材を仕舞った。 「それで、()()()の方はどうなの? 僕が見るに、もっと悩み事が増えたように見えるけど?」 「……悩んでいるっていうか、わからないんですよ。自分の描きたい絵が」 「なんだ、そんなことか」  彼は考える素振りすらなく答えた。 「翔琉くんは真面目だからね。きっと、頭の中で完璧にイメージ出来ないと描きだせないタイプでしょ」 「そうですけど……」 「だから、風景画が多い。人物画っていうのは、素人意見だけど表情とかをある程度補完して描かないといけないから苦手。風景って、答えが基本動かないもんね」  彼が大学の心理学専攻というのは、どうやら間違っていないみたいだ。  パシャっという機械的な音で、僕は彼にスマホを向けられていることに気が付いた。 「何してるんです?」 「大丈夫。僕、写真サークル入ってるから」  一体、何が大丈夫なんだろうか。  彼は「飲みサーだから、カメラなんて触ったこともないけど」と付け加え、今しがた撮ったのであろう写真を見せる。 「この写真、タイトルを付けるとしたら、翔琉くんなら何てタイトルにするかな?」  部屋の隅に置かれた勉強机に座る僕。窓から差し込む日差しは手元のスケッチブックを照らし、僕の顔には影がかかっている。 「〝葛藤〟とかですかね」 「はい、お手本のような真面目な無個性をありがとう」  真っ先に思いついたタイトルは〝僕〟だったのだから、自分では十分捻ったつもりだったのだけれど。 「僕がこの作品にタイトルを付けるとしたら、〝巣くう烏〟。いい感じに厨二病ちっくでしょ?」 「烏なんて、どこにも映ってないですよ?」  彼は頭を抱えながら苦笑した。 「烏は翔琉くんのことだよ」  烏って正直、良い印象がないから馬鹿にされているのかなと思ったが、この人はきっと今も真面目に授業をしてくれているのだ。だから、反論も言及もしなかった。 「烏の死骸を見ないのって、なぜだか知っているかい?」 「確か、死期が近まったり、体調が悪い時は巣でジッとしているからでしたっけ?」 「博識だね。まさにその通り。本調子じゃない烏が、部屋の隅の巣でジッとしている。だから、〝巣くう烏〟。巣篭るの方が意味的にはいいんだろうけど、巣くうには悪い考えや病気が宿るときなんかにも使われるから、ダブルミーニング的な意味合いだね。結構、考えられてるでしょ?」  そういえば、今まで自分の作品にタイトルなんて付けたこともなかった。もちろん、何かの賞やコンテストに応募出来るようなレベルでは無いし、そもそも絵で食べて行こうだなんて思ってもいない。ただ、自分が好きなことでどこまで表現できるのか。それが知りたくて、描き続けているんだと思う。 「僕、初めて響島さんのこと人間として尊敬したかもしれません」 「今までの僕も尊敬してくれていいんだよ?」  急に外の空気が恋しくなって、さっき閉めたばかりの窓をもう一度開ける。先ほどよりも、随分と温かく感じる風がふわりと部屋に入りこむのを感じた。 「翔琉くんはタイトルから作り始めてみてもいいかもね」 「タイトル……」  スケッチブックをパラパラとめくる。途中で投げ出したものが多くて、絵として完成しているものは数少なかった。 「作品のタイトルっていうのは、創作者が伝えたいこと、見てほしいことだからね。その人の個性そのものさ。タイトルを先に仮でもいいから考えて、そこから想像力を膨らませていく」 「でも、結局何が描きたいのかわからないから、タイトルの考えようもないですよ」  彼はカメラをセルフィ―にして、やけに決め顔な自撮りをした。 「描きたいものがわからないんじゃなくて、それを言葉にして表さないからずっとわからないままなんだよ。言葉にしなきゃ伝わらないってよく言うけど、それって自分自身に対しても言えることなんだよね。こういうのは、とにかくがむしゃらに何でもいいから、一回殴り書きしてみることが大事なんだ。言葉に出すだけでもいいよ」  彼は撮った自身の写真を見て、満足げに唸る。 「かっこいい、モテそう、活かした髪型、空気が旨そう、にきび出来ててショック、やっぱかっけえわ……みたいな感じで、本当に頭に浮かんだことをひたすら口か手から引っ張り出してあげるんだよ」  ここまで自分に自信が持てている彼が羨ましい。元々の性格もあるのだろうけど、彼の経験や考え方がこういった前向きな思考に導いているのだろう。  でも、僕が彼や涼音の真似をしたところで、それは個性とは呼べないのだろう。つまらない自分を変えたくて、無理矢理肉付けした個性は、本当の個性とは呼べない。  僕らしさって何だろう。  子供の頃は持っていた大事な()をどこかに置いてきた。だから、昔の僕を思いだせない。がむしゃらに好きなように描いていた絵が、今では建前を気にしてつまらない無個性になっている。きっと、それだけの話だ。  指折りのフレームに窓の外の景色を収める。燦燦と降り注ぐ陽光に照らされる屋根は、稜線のごとく長い連なりを見せる。時折、微風(そよかぜ)が桜の花びらを運び、姿を見せない鳥が歌うように鳴く。  こんな素晴らしい景色なのに、やっぱりタイトルは思いつかなかった。
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