3章

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 部屋に通されて真っ先に思ったのは、一人部屋じゃないということだった。この旅館には一人部屋なんて存在しないらしく、結果的に僕は二人部屋を一人で使う形になった。  十畳ほどの和室に、外からうっすら同級生の声が聞こえる空間に、一人ポツンと残されるのは少々疎外感がある。しかし、この疎外感はありがたい話だった。  深呼吸をしてみると、檜の香りが鼻腔を刺激した。優しい明かりに照らされた部屋には木製の大きなテーブルが中央に置かれ、壁には掛け軸が飾られている。縁側には二人座れる小さな椅子とテーブルが置かれていて、その先の障子襖を開けると、小さな檜樽の露天風呂が姿を現す。 「ウチ、公立だよな……」  まるで私立の修学旅行のような高級感溢れる宿に、ある意味呆れてしまった。沖縄とか海外じゃない理由は、この宿に全て詰まっている気さえする。  部屋から覗く景色は裏手にある山々を一望でき、暗がりでもよくわかる茂た緑を感じた。きっと、秋になると、紅葉なんかが絶景のスポットになるのだろう。  荷物を端に寄せ、縁側の椅子に座って一息つく。一日中歩き回った疲労感が急に襲い掛かり、早い眠気さえ感じた。  この後すぐに宴会場で夕食があるけれど、日中何かと胃に入れ続けていたから正直お腹はすいていない。その後は大浴場の解放があって、二十三時過ぎには消灯という予定になっている。  夕餉(ゆうげ)の時間まで、ぼんやりと部屋からの景色を眺めていると、部屋をノックする音が聞こえた。  重い腰を上げ、部屋のドアを開くと館内着の浴衣を身に纏った涼音がいた。白地に灰藍色の鎖をつないだような模様の郭繋(くるわつなぎ)柄の旅館でありがちな浴衣の上に、松葉色の茶羽織を着ている。 「じゃじゃーん。どう?」  その場でくるっと一回転する彼女。羽織の袖が蝶の羽のようになびく。 「……似合っているよ」 「えへへ、そうでしょー! 私からしたら少し暑いんだけどね。雰囲気のために我慢しなくちゃ」  彼女の中では八月の終わり。四月の空調では、羽織まで来ていたら、確かに暑苦しいのかもしれない。 「羽織くらい脱いどけばいいんじゃない?」 「いや、それは少しエッチでしょ」 「そんなことないでしょ……」  僕の脇をすり抜け、部屋に入りこむ彼女。僕はため息をつきながらドアを閉める。 「この空間に一人って、やっぱり寂しいよね、これ」 「僕は開放的でもう気にならなくなったけど」 「まあ、翔琉くんがいいなら、いいか。それより、君も浴衣着なよ。私だけ見せて、不公平だとは思いませんか?」  彼女はまるで自室かのように、畳の上へ身体を投げ出す。寝転がって膝を抱える姿に、大きな猫が入りこんできたみたいだと思った。  部屋の隅に置かれた浴衣を手に取り、脱衣所で着替える。その間、部屋から彼女の声が聞こえないことに少しの不安がよぎる。  今は、会話が途切れたタイミングと言えるのではないだろうか。  おそるおそる、部屋に戻ると僕の疑心は骨折り損だとわかってほっとする。身体を丸めて寝転がる彼女は、畳に頬を擦り付けながら、小さく寝息を立てていた。  起こすのもどうかと思い、何となく彼女の横に座ってみる。  浴衣のせいで彼女の華奢な身体のラインが浮き彫りになって、罪悪感に駆られた。鳴りやまない鼓動に、深く息を吐く。  部屋の中に居場所を探すように視線を彷徨わせるが、やっぱり僕の意識は彼女へと回帰する。  長い睫毛がピクリと動く。規則的に揺れる身体。濡羽色の長い髪が畳に広がり、芸術すら感じる模様をつくっている。  彼女がモゾっと動き、僕の膝に額を添える。彼女の熱が、膝から徐々に全身に駆け巡っている気がした。  迷った末に、僕はスケッチブックとペンを手に取った。白紙のキャンパスに恐る恐る筆を走らせる。ここにいる彼女を、今を生きる姿を残したい。その思いで描き始めた絵も、ほんの数分、彼女の輪郭すら捉えることなく、手が止まる。  彼女を描くことを恐れている自分がいる。憶病で無個性な僕が、彼女を一度でも描いてしまえば、それで全てが終わってしまう。そんな気がした。  だから、まだ描けない。時間は迫っているけれど、だからといって妥協はしたくない。  外から、烏のやかましい鳴き声が聞こえた。  彼女の頬に指を添えると、やっぱり猫みたいに頬ずりをする。そんな姿がどうしようもなく愛らしく、心底僕を複雑な気持ちにさせた。
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