1章

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 次の日、母親には図書館で勉強してくると嘘をついて、駅前に向かった。  観光地とはいえ、年末にはあまりにも早すぎる十二月の半ばに来るような人も中々おらず、駅前ですら閑散とした気配を漂わせている。  ぽつぽつと人がいるだけの駅前に、彼女は既にいた。約束の時間まではまだ二十分もあるというのに。  そして、今日も彼女は変な人だなと、服装や表情ではなくその輪郭を見るだけで直感的に思った。町の様を映したような冬の枯草しかない花壇を、わざわざ膝折にしてまで眺めていたのだ。 「まだ約束まで随分と時間があるみたいなんだけど」  僕の言葉に彼女がぱっと振り向く。そして、今日も清々しい笑顔を携えて立ち上がる。 「こんにちは、翔琉くん。来てくれないかと思ったよ。それにしても早いね」 「それは僕が最初に質問したことだよ」 「あ~、さてはデートが楽しみ過ぎて早くに来ちゃったんでしょ」  男の子だなぁなんて言いながら、彼女は歩き出す。相変わらず人の話は聞かないし、行動の早い人だ。 「何も聞かされていないで、ワクワクできるほど僕は図太くないよ。むしろ、何をされるのかって不安しかない」 「こんな可愛い子になら何をされたって文句はないでしょ?」  少し後ろを歩く僕に向けて、わざわざ振り返ってまでウインクをする彼女に、今日も振り回されるんだろうという覚悟が固くなる。 「それより、素敵なお姉さんから一つ翔琉くんに教えてあげることがあります」 「……なに?」 「女の子と会ったときは、まず褒めなさい!」  海沿いの潮風が、彼女の桜の花を思わせる淡いピンクのワンピースの裾をなびかせる。薄衣のようなレースと刺繍が施されていて、服からチラリと覗く首元や腕、足の透明感ある肌を際立たせている。ウエストに巻かれた細い黒ベルトが彼女の華奢な身体つきをしっかりと魅せる。  肩からはオーバーサイズの白いカーディガンを羽織り、手元には大きなバスケット。濡羽色の艶やかな髪はローポニーテールで毛先を軽いカールで遊ばせている。 「お洒落だとは思うけど、次からはもう少し控えめにしてほしい」 「どうして?」  都会から来たと言っていただけあって、彼女のお洒落な服装は、この町では嫌でも目立つ。そして、それは逆説的に側を歩く僕の稚拙な服装をさらに際立たせていることになる。 「隣を歩くのが余計億劫(おっくう)になるからだよ」  彼女の視線が僕のつま先から徐々にせりあがる。 「別に変な服装ってわけでもないじゃん。私から見たらちょっと暑そうだけど」 「これでも十分寒いよ」  海風に冷える肌を隠すようにマフラーを口元まで上げる。 「それで、一体どこに向かっているんだい?」 「んー? 海だよ」 「海なら、今目の前に広がっているじゃないか」  僕が海を指さすと、彼女はつられてそちらを向く。 「ここも綺麗なんだけど、観光地の海だからねぇ……」  なるほど、と妙に納得した。  確かにここは夏は観光客が砂浜を埋め尽くすため、浜辺には冬の今もその残骸が多く残っているし、海面だって特に透明度が高いわけでもない。地元の人や通な旅人が足を止めるような場所では到底ないビーチだ。 「私が求めるのは最高の景色なんだから、妥協なんかしちゃダメなんだよ」 「それって、僕必要なくない?」 「どうして? 翔琉くんはもう最高の景色を探す隊の一人なのに?」 「……えっ?」  不思議そうに上半身ごとかしげる彼女に、僕は当然の疑問を投げかける。 「いつ僕が入るって言ったのさ」 「言ってないけど、私の話を聞いた時点で、入ったことになっちゃうんだよ」 「そんな、横暴な……」 「ちなみにメンバーは私と翔琉くんの二人だけです。頼むよ、副隊長」  少し前に見えるバス停にバスが止まったのを見て、彼女は慌てた表情で走り出す。 「まずいよ! あれ逃したら次、三十分後だよ!」 「バス乗るなんて聞いてないよ!」  出会って十数分で既に何回、彼女に翻弄されたかわからない。  バスに間一髪でかけ乗り、座席で小さな息をつく。すぐに暴れる心臓が波を治め、ようやく隣の彼女が激しい息切れをしていることに気が付いた。 「だ、大丈夫? ほら、水飲んで」  僕は急いでリュックからペットボトルを取り出して、彼女に渡す。  そういえば、彼女は長いこと入院していた。まだ体力が戻っていないのだろう。  こんな時でさえ、彼女よりも周りの目を気にかけてしまう性格に、心底嫌気が差す。 「ぷはぁーっ! ありがとう、やっぱり体力落ちてるなぁ」  まだ荒い呼吸だが、彼女に笑顔が戻ったことに胸をなでおろす。 「無茶しないで、三十分大人しく待てば良かったんだよ」 「ダメダメ。時間は有限だよ、少年。でも、これで一つ君を付き合わせる名目が出来たよ。もし一人で倒れたりしたら大変なことだからね。翔琉くん、人の頼みは断れない性格みたいだし」  無邪気に笑う彼女越しの海が、冬の強い日差しでキラキラと輝く。 「それなら、他の人もその最高の景色を探す隊? とやらに入れればいいじゃないか。そもそも、なんで僕なのさ」 「そんなの簡単だよ。私は決めてたんだ。この町に来て、最初に素敵な景色を見せてくれた人にだけ頼もうってね。だから、これ以上メンバーを増やす気はないよ」 「屋上行きたいって言ったの、涼音だよ。僕が進んで連れて行ったわけじゃないんだけど……」 「いいじゃん、いいじゃん。そんなの気になさるなよ若人。もし存外早くに最高の景色が見つかったら、今度は私が君の夢に付き合ってあげるからさ」  膝の上に置いたバスケットを大事そうに抱え、彼女は窓の外へ視線を向ける。その横顔はやっぱり僕の目を惹いて、思わずリュックから画材を取り出しそうになった。  バスは住んでいる町よりさらに田舎の方へと海沿いを走り、二十分ほどで目的の場所に着く。下車した瞬間、車内の暖房で忘れかけていた冬の凍てつきを思いだす。  急こう配な細い坂の上から、遠くの方にここからでもわかるほど透き通った海が見える。 「うわーっ! これだよ、これ!」 「来たことあるの?」 「小さいころに家族でね。すっごく綺麗だった気がするんだけど、幼かったからあんまり覚えてないの。だから、もしかしたらこれが最高の景色になるかもしれないんだよ」  二、三百メートルはありそうな坂を下る最中、小さな不安がよぎった。 「涼音、この坂結構な距離だけど、大丈夫なの? 特に帰りは上りだけど……」 「うーん、わからない! でも最悪、翔琉くんにおぶってもらうから大丈夫だよ!」  ニコッと日差しにも負けない笑みにため息が引っ込む。 「タクシーの番号は調べておくよ」 「えー、もったいない! 二つの意味でもったいない! お金もだし、女の子の身体を味わう絶好のチャンスなのに!」 「時間は有限、なんでしょ? 効率の問題だよ。後、僕は涼音を背負ってこの坂を上れる自信はこれっぽっちもないよ」 「失礼な、今の私は過去一で軽いんだから大丈夫だよ」  それは、入院していたからということなのだろうけど、言葉に出して追求することは(はばか)られた。 「それに景色って、なにも風景だけじゃないよ。人工的な街並みだって、何気ない朝の教室だって、テーブルに並ぶ食事だって、全部景色なんだよ。それにその時の心境とか、いつ誰と見るのかによっても変わってくるんだろうし」  だからね、と彼女は続ける。 「もしかしたら、私の求める最高の景色っていうのは、翔琉くんの背中から見た景色かもしれないのだよ」  上目で見つめてくる彼女の魂胆は何となくわかっていて、僕はかたくなに正面の海から目線を動かさない。 「僕と涼音の身長は十センチも変わらないよ」 「もー、そういうことじゃないし、ここはドキッとするところでしょー!」  僕がひねくれたことを返すし、彼女が時折茶化すこともあるから深く考えることは出来ないけれど、彼女の熱量だけは強く感じ取れた。  坂道も終わり、木々の生い茂る細道を抜けると同時に、強い浜風が僕らを叩きつける。砂が目に入らないように覆っていた手をどけると、そこは一面の青で、僕は思わず声を失った。  プライベートビーチを思わせるゴミ一つ落ちていない砂浜に、まるで外国の海のように透き通った海面、全身に感じる潮の香り。Uの字に切り取られた浜辺と三方向を囲う緑の山々が、一層この場所を秘境のような隠れスポットだと感じさせる。  実は、僕も幼い頃にこの場所へと来たことがある。その時は潮の香りも、海の透明度も具体的に印象が残るわけでもなく、ただ小さな砂浜だなぁという感想しかなかった。  でも、成長した今になって、もう一度ここへ来てよかったと心からそう思えた。  傍に目をやると、彼女は嬉しさに揺れるような微笑みのまま、瞳に涙を浮かべている。長い睫毛(まつげ)に雫が触れ、きらきらと輝く。 「綺麗だね」 「……うん」  眼前の景色は彼女を見た瞬間から、完全に背景へと化していた。
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