2章

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         *  彼女が転校してきてから二か月が経ち、厳しい寒さと彼女に振り回される生活にもようやく慣れてきた頃、彼女はクラスで完全に変な人扱いになっていた。  別に虐められているとか、仲間外れにされているというわけではない。友達はいるらしいし、持ち前の明るさで誰とでも話す。しかし、周りは眉をひそめた疑わしそうな視線を彼女に向ける。  みんなが彼女は変なやつだ、という共通認識がクラスの中で暗黙的に定まっていた。  かく言う僕も、彼女に当初から抱いていた小さな気持ちが、今では確かな疑問に変わるくらいには大きくなっている。    まだまだ寒さの厳しい二月。彼女はついに半そでで登校してきた。  その異様な光景に、クラスが一瞬静まり返る。 「おっはよー!」  凍り付いたクラスの空気を彼女の溌剌な挨拶が叩き壊す。吃驚(きっきょう)で包まれた空気も、結局はすぐに彼女はそういう人という事前認識のおかげで、変な雰囲気にはならなかった。  そもそも、最初から変だった。十二月だっていうのにコートの一つも持たず転校してきて、海に行った時も、どこか春を想像させる服装だった。それでも、一応は手首から上を露出させないものだったから、単純に元々薄着な人なんだなとしか思ってはいなかった。 「よっ、翔琉くん。おはよう。良い天気だね!」  目の前で机に深く腰を掛けた彼女に一瞥をくれ、窓の外を見る。確かに冬の寒さがたっぷりと染み込んだ空は珍しく太陽を遮るものが一切なく、校庭を強く照らしていた。 「おはよう。……寒くないの?」  彼女の肢体がすぐ目の前にあって、特有の甘い香りが鼻腔を刺激した。ざわつく鼓動を騙すために、深めの息をつく。思春期の男子に、この距離の女性は毒蝶に等しい。 「んー? 寒かったら半そでなんかにしないよ」  ケロっとした表情で言いのけた彼女の白い腕は、見るからに粟立(あわだ)っていた。でも、彼女は本当に寒さなど感じていないようで、むしろ外からの日差しを避けるように机の上に座っている。  流石に異常ではないか。彼女の身体と心がちぐはぐで、これではまるで、違う世界を生きているようだ。彼女の見ている景色は、僕の見ている景色とは違う。そう言われている気がした。  クラスメイトは既に何も気にしていないようで、先刻までのざわつきを早くも取り戻している。僕だけが、疑惑を膨らませていた。これだけ近い距離に、彼女が僕を許したから気が付いた、彼女の身体が発する淡い警鐘。見て見ぬふりは、流石に出来なかった。  ホームルームを知らせるチャイムが鳴り響き、遅れて猫背の佐渡が無精ひげを擦りながら姿を見せる。 「先生、おっはよー!」  目の前の彼女が大袈裟に手を振る。佐渡は彼女に一瞥をくれて、一瞬訝しげな表情をするが、すぐにその顔を引っ込めた。 「雨笠~、机は弁当を食うところであって、座るところじゃないぞ」 「先生、机は勉強をするところですよっと」  跳ねた語尾に合わせて机から降りた彼女は、他のクラスメイトよろしく自分の席に戻っていく。  僕が踏み込んでよいことなのかわからないまま、一日が過ぎて昼休み、佐渡に呼び出された。  相変わらず、ごちゃごちゃの教師机の前で、だらしなさそうに姿勢を崩した彼に声をかける。いつも思うが、どうしてこんな生徒の見本にならない男が、未だに教師を続けていられるのだろうか。 「おー、来たか。どうだ、調子は?」 「ぼちぼちですね。用事は何ですか?」 「あー、まあ大したことないのが一つ、それなりに大したことあるのが一つだ。どっちから済ませたいか選んでいいぞ」 「……じゃあ、前者からで」  佐渡はぼさぼさの髪を乱暴に掻き、一枚のプリントに目を通す。 「鳥野、今回の模試は少し成績が良くなかったな。一応、教師として何かあれば聞いてやる」  前回までA判定だった第一志望は、今回の模試ではB判定だった。そのことを危惧しているのだろう。僕としては、親に散々怒鳴り散らされた後だから、もうその話は勘弁してほしいところではある。 「別に、少し山が外れただけです」  佐渡は納得してないように眉を上げて片目で僕を見たが、特に興味もなさそうにプリントをデスクに放る。 「そうか。まあ、お前は今まで優秀過ぎたからな。こんな時もあったほうが人間味があっていいぞ。俺はてっきりロボットか何かだと思ってたからな」  どこかで聞いた台詞に、珍しくほんのちょっぴり傷ついた。周りから見れば、僕はそんなに無機質な人間だったのだろうか。もちろん、二人とも比喩的冗談で言ってるだけなんだろうけど。恥ずかしさと多少の焦燥感が、じわじわとこみ上げてくる。 「それで、大したことのある方は何なんですか?」  居心地が悪くなって、意識的に話を逸らす。 「あぁ、そっちな……」  佐渡が珍しく姿勢を正す。そして、視線を彷徨わせて言葉を選ぶ。 「雨笠はどうだ?」  たっぷり時間を使って、結局そんな抽象的な問いだけが、彼から発される。 「どう、と言われても……振り回されっぱなしですよ。僕じゃなくて、もう少しコミュ力が高い人に任せるべきじゃなかったですか?」 「でも、仲良さそうにやってたじゃないか。雨笠の成績もそれなりになってきてるぞ」  この二か月、ぶつくさ文句を言う彼女に、少しずつ勉強を教えていた甲斐が多少なりともあったらしい。  そもそも、彼女は勉強は苦手というわりに、入院前までの範囲はほとんど完璧に理解していた。だから、入院していた八か月の分を教えるだけで済んだ。最初は中学の範囲から教えることになるんじゃないかと冷や冷やしていたから、案外拍子抜けだった。  でも、僕の今の疑問は彼女の学力に関してではない。 「彼女、ちょっと変だと先生は思いませんか?」  佐渡は特に表情を変えることもなく、ぼやっと宙を眺める。 「いじめとか、そういうのは無いな?」 「それは無いですけど……」 「じゃあ、いい。気にするな」  あまりに素っ気ない反応に余計、疑心の念が強まる。  佐渡は何かを知っている。なのに、それを教える気はないらしい。 「でも――」  歯がゆさに語気が強くなるが、続く言葉が出てこない。  佐渡は大きくため息を漏らす。 「そんなに気になるなら、雨笠に直接聞け。教えてもらえないなら、諦めろ。俺から言えるのはそれだけだ」  佐渡の態度から、彼女が何かを隠していることは明白だ。ただ、それが何なのか見当もつかなかった。彼女から見え隠れする違和感を突き止めるだけの人生経験が、僕にはまだない。 「わかりました。そうします」  滅多にしない真面目な顔で佐渡が頷く。その様相が、一層僕を踏み込んではいけないラインへといざなっている気がした。
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