ヤクザは喋れない彼女に愛される

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 商店街の裏通りにある廃れたパチンコ屋から外の世界に出たとき、陽は高くから眩しいほどに降り注いでいた。  足元に動く影を見つけて視線をやると、黒猫が蓮の目の前を横切っていくところだった。猫は足を止めた連を一瞥して、雑居ビルの隙間に身を滑り込ませて消える。なだらかな腰つきは、昨晩上司にすすめられて抱いた、女の尻を思い起こさせた。    換金所から背中を丸めた客が出て来る。  釘調整で出玉をコントロールしてる店に通うなんて馬鹿げている、と蓮はギャンブル依存症に両足をつっこんでいる客を見下している。運よく勝てた奴を見て台に群がったところで、有り金のほとんどを吸い込まれて終いだ。  ドアが閉まっても、パチンコ玉の暴れる音が聞こえてくる店先で、煙草に火を点けた。  煙を吐き出すと、抜けるような青色にみるみる雲が増えていく。  胃がぐうぐう音を上げたので、試しに煙草を吸ってみたが、苦いだけの煙は腹の足しになんかならない。胃が見事にからになっている。そういえば朝飯も缶コーヒーを一本飲んだだけだった。  吸い殻をアスファルトに落とし、革靴の底で踏み潰した。  干からびた商店街の中でも繁盛しているコンビニで、カップラーメンを買う。アタッシュケースとレジ袋を手に、隣の通りまで足を延ばした。  赤い屋根のスナックの前で足を止め、板チョコのような扉に『準備中』と書かれた札が下がっているのを無視して、ハンドルに手を掛けた。  カランカラン、とベルが鳴る。  すぐに、カウンターの下に隠れていた店主が、プレーリードッグのように背中を伸ばした。 「ごめんなさいねぇ。開店は夜なのよぉ……ってあら。蓮ちゃんじゃない。どしたの」  日の入らない店内でもまばゆい、オレンジ色のお団子頭の中年男が、濃いアイラインを引いた目を蓮に向けた。長い睫毛が、呆れたように下瞼を叩いている。  体格のいい体に赤いドレスを纏った彼は、鬱憤を晴らすようにボウルのなかの煮干しの頭をへし折っていた。蓮はスツールに座り、アタッシェケースを床に下ろして、カップラーメンと割り箸を取り出した。 「ちょっと、ここは休憩所じゃないんですけどぉ」  ドスのきいた声をひっくり返しているような、高いのか低いのか分からない声で、カウンター越しの向井田仁司(むかいだじんじ)は、大きな顔を歪めた。 「お湯寄こせ」  蓮が割りばしの底でカウンターを叩く。 「はああん?アンタもうちょっと頼み方知らないわけ?」 「お湯」  仁司は蓮よりも一回り以上年上だが、この店が連の所属する組織の縄張にある以上、蓮に分があるのは明白だった。しかし仁司は、そんなことはお構いなしに、真っ赤な口紅をひいた唇を尖らせる。 「どうせ、みかじめ料持ったままあっちこっち行けないからここに来たんでしょ。それアタシの目の前に置いておくんじゃないわよ。こっそり飯代抜いてやるんだからね」  ふんっ、と鼻から息を噴射し、仁司はカウンターの奥にかかった暖簾を捲り上げた。 「りっちゃーん、ちょっとお」  地鳴りのような声が響き、蓮は耳を塞ぎたくなった。  なかなか出てこないお湯を待ち侘びて、蓮はジャケットの胸ポケットから煙草の箱を取り出す。火をつけようとしたそのときに、暖簾が揺れた。出てきたのは、黒髪を首の後ろで一つに結んだ、小柄な女だった。 「蓮ちゃん、こちら八重樫律(やえがしりつ)さん。仲良くしてあげてね。りっちゃん。この人、常連の蓮ちゃん。ごはん食べに来たんだって、ほらアレ」  仁司の装飾された爪が馬鹿にしたように、カウンターのカップラーメンを指す。律は蓮の手元をじっと見つめてから小さく頷いて、再び暖簾の奥へ消えて行った。 「何だ?」  蓮が首をひねると、再び煮干しをいじめ始めた仁司が「待ってろってことよ」と怪しく口角を上げた。  見慣れない女だった。  意外と繁盛してる店だから店員として雇ったのかもしれないが、夜に働くには地味過ぎる容姿だ。薄化粧だし薄っぺらいボディライン。いや、仁司の従兄妹か何かかもしれない。  煮干しの首が破壊され、ステンレスのボウルに放り込まれる音だけが聞こえる。  暫くして、しずしずと律が戻って来た。  両手で大事そうに膳を持っていた。 「あらあら、勿体ないわよこんなに」  仁司が盆に乗った食器の中身をのぞいて微笑んだ。律は仁司の半分ほどの太さしかない腕を、蓮の前に伸ばした。  作法の通りに置かれた食器を見下ろすと、湯気の立った白米と、絹さやと麩の味噌汁。ふっくらとした盛り上がった卵焼き、ナスとピーマンの煮びたし。大根ときゅうりの浅漬けが乗っていた。  条件反射のように腹の虫が鳴った。思わず唾を飲み込む。  律がどうぞというように頷いたのを見て、蓮は箸を取った。  最初に口を付けた味噌汁が胃の中に染みた。  出汁醤油を含んだナスを白米に乗っけると、箸が止まらない。甘い味付けの卵焼きに溜息が漏れた。箸休めに食べるさっぱりした浅漬けも美味い。    次々に胃に収めていると、仁司が鼻で笑う気配がした。 「ゆっくり食べなさいよぉ。この子のごはん美味しいのはわかるけどさぁ」 「うるせぇ」  律が向こう側でニコニコしている。 「新人か?」  聞くと、律は二度頷いた。  彼女は驚くほど静かだった。  自分だけが独り言を喋っているようだ。 「何で喋んねえんだ」  思わず訊くと、律はぱちぱちと瞬きをした。困ったように、頭一つ分以上高いところにある仁司を顔を見つめた。仁司はカウンターの隅にある、固定電話の横に置かれたメモ帳とペンを律に手渡す。  律はレシピでも書き留めるように、滑らかにペンを動かしそれを蓮に見せた。 『喋れません』  蓮はメモ紙と律の顔を交互に見た。  何で? 思ったことがそのまま口から漏れ出ていた。  律は視線を泳がせ、助けを求めるようにして再び仁司を見上げた。  仁司は何でもなさそうな顔をして、「もっと仲良くなったら教えてもらいなさいな。ほら、とっとと食べて。こっちだって暇じゃないんだからね」と蓮を急かした。  最後の一口を食み、蓮は漸ようやく自分も暇ではないことを思い出した。立ち上がりながら、空になった膳を律に押し付ける。 「……美味かった」  連のぶっきらぼうな呟きに、律は目元を綻ばせ、頬を上気させた。  気娘のように見えるのに、炙った茶葉みたいな地味な色のエプロンがよく似合っている。腰紐で結んだウエストが、細く頼りない。  カタギ臭が強いわりに、キャバ嬢や風俗嬢にはない女くささがあり、それは時折香ってく甘い体臭に紐づけられている気がした。  律に意識を向けてぼんやりしていた視界いっぱいに太い腕が現れ、蓮は反射的に身を引いた。 「これはお代がわりに頂きまあす」  仁司が剃り跡が目立つ手で、ユーフォーキャッチャーの動きを真似て、手つかずのカップラーメンを持って行った。蓮は思わず舌打ちをする。考えてみると、それよりいいものを食べられたのだから文句を言えた立場ではない。しかし癪だった。  蓮はバッグを掴んだ。 「また来る」  誰にともなく言って扉を開けると、暗いところに慣れた瞳に陽光が刺さった。ふと呼び止められたような気がして振り返ると、胸の前で手を振る律が、垂れ目がちの目尻を細めて微笑んでいた。その後ろでは仁司が蓮の心の奥を見透かしたようにニヤニヤしていたが、見なかったふりをした。  何か惜しくなりながら、背を向ける。  卵焼きの甘さが口の中に残っていた。  事務所に戻ると、応接用のソファーで貧乏ゆすりをしていた魚谷隆二(うおたにりゅうじ)と目が合った。ふんぞり返りながら若衆に革靴を磨かせている。 「おう、蓮。遅かったじゃねえか。お前の昔のアニキみてえに金持って飛んだのかと思ったぜ」  片頬だけ上げて、魚谷が意地悪く笑う。蓮はアタッシュケースから封筒の束を取り出し、ドアの横で見張りをしていた若衆の一人に手渡した。 「どこほっつき歩いてたんだ」  魚谷が真ん中分けのロン毛をかき上げ、見下すような視線を向ける。蓮は、しつけられた通りに頭を下げた。組の序列には逆らわない。 「飯食ってました。すんません」 「んだよ色気のねえ。女の一人でも引っ掛けてこいや」 「俺は、魚谷さんみてえに女捕まえられるようなツラじゃねえんで」  魚谷は満更でもなさそうにうふふと笑った。 「まあでも、俺にはもう女がいるからな。ほいほい遊んでられねえんだわ」 「この間はごちそうさまでした。チカさん元気すか?」 「おお、変わりねえよ」  先日、魚谷の家で食事会という名の合コンをしたのだ。あの時持ち帰り忘れた、波模様の彫りの入ったネクタイピンは、魚谷の恋人であるチカが預かっているはずだ。何故か直接連絡がきたから間違いない。  蓮は人好きのする笑みをつくり、奥の休憩室へ逃げた。  魚谷に絡まれると面倒だ。案の定、今しがた出てきた部屋から、若衆をなじるような声が聞こえた。  蓮は休憩室の質の悪いソファーに凭れ、『スナック薔薇園』で食べた卵焼きの味を舌で辿る。  父が首を吊ってから布団を出られなくなった母が、昔作ってくれた味によく似ていた。二十年も前の記憶だが、その頃食卓に出される質素なメニューの中で一番贅沢なものだったから、強く印象に残っている。  わざと深く煙草を吸った。慣れた苦味が口の中を上書きする。  空中に広がった煙は、窓の隙間から、生き物のように逃げて行った。

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