覚えていなかったら、そのときは……

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覚えていなかったら、そのときは……

 あれ、とフロアのドアを抜けると同時に息がこぼれる。出社して最初に視線が向かうのは、もう癖みたいなものだ。いつもは先に聞こえる「おはよう」がない。それどころかパソコンすら立ち上がっていない。まだ来ていないのか。 「遅延はなかったよな」  ほんの数分前に通ってきた駅に、そんなお知らせはなかったはず。  金曜日なのでいつもより人が多い。今日は在宅組も何人か来ている。「おはよう」「久しぶり」と声が交わされる中、聞き慣れた声だけがない。 「寝坊か? それとも……」  ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出す。画面に通知はない。メッセージアプリを立ち上げ、ひと言だけ送る。  ――今日、出社じゃねーの?  同期の高木は、俺と同じで毎日出社している珍しいメンバーのひとりだ。運動不足になりそうだから、と適当に答えた俺に「確かに。じゃあ俺も出社しよ」と笑って言っていた。運動不足解消が目的でも俺の言葉がきっかけになったことが嬉しかった。それからはどんなに周りの人数が変わろうと俺と高木だけは必ず顔を合わせている。  手の中で震えた画面に視線を落とす。  ――今日は在宅。  そっけなさすぎる返事。理由すらない。なんだよ。俺には説明する必要ないってことかよ。イラっとした気持ちのままスマートフォンをポケットに戻した。  会議の時間になり、画面を繋げば、すぐに高木の顔が現れる。いま自宅なんだよな。寝室か? 初めて見る部屋が少し気になってしまう。いや、ジロジロ見るもんじゃないよな。さっきの返信のイライラを引きずってしまい、言葉が出ない。高木も何も言わないし……と、不意に違和感を覚えた。なんか顔赤くない? 在宅の理由ってもしかして。確かめたいが、すぐに人が集まり出す。終わったら聞いてみるか。 「なんか顔赤くない?」 「……そう?」  驚いたように見開かれた目。画面で確かめているのか、顔を右に左にと向けている。キョロキョロと動くのが小動物みたいで可愛い。いや、そうじゃなくて。 「ちょっと鼻声だし。具合悪いんじゃないの?」  さらに突っ込めば、ようやく観念したのか力の抜けた表情に変わる。 「あー、ちょっと風邪っぽいんだ。だから午後は休もうと思ってる」 「大丈夫なの?」 「寝てれば治るだろ」  つまりは病院にも行ってないのか。本当に大丈夫なのか? 心配を通り越してイライラしてくる。こんなふうに在宅が当たり前になったのも病気がきっかけなのに。もっと危機感持ったらどうなんだ。 「風邪を甘く見過ぎじゃない?」 「平気だって。そんなに心配ならお前が看病してくれよ」  売り言葉に買い言葉。冗談のようなひとこと。そんなので動いてしまう自分はバカなのかもしれない。気づけば、退出をクリックし、今日中の仕事を一気に片付けていた。もちろん午後は休暇の申請をして。  高木の家は知っている。酔っ払った高木を送ったのは一度や二度ではない。行ったら驚くかな。なんて言うかな。まあ、でも追い返しはしないだろう。看病しろと言ったのはあいつなのだから。  インターフォンを鳴らし、戸惑う様子を聞きながら「アイス溶けるから」と開錠させる。こちらからは見えなかったが、午前に聞いていた声よりも明らかに掠れていたので症状は悪化しているに違いない。だから甘く見るなって言ったのに。  ドアが開き、ふわっと暖かな空気が顔に触れる。高木は会議に出たときのシャツのままだった。小さくこぼれた息が白く、顔の赤さが際立つ。  気づいたら、手を伸ばしていた。 「うわ、顔真っ赤じゃん。熱あるんだろ」  伸ばしてしまったことに自分で驚いて、不自然にならないよう笑ってみせる。 「あったけー」 「ひとの顔で暖を取るなよ」 「いやいや、お前こそ。気持ちいいとか思ってんだろ」  じわりと流れ込む熱を気持ちいいと思っているのは俺の方だ。高木がムッと眉を寄せ、俺の手を振り払う。振り払われてホッとしたような、悲しいような。 「あー、もう、頭いてーんだよ」 「はいはい。もう薬飲んで寝な」 「お前が邪魔してるんだろ」  靴下のまま上がり込み、初めて足を置いた床が小さく鳴る。高木を送るときは玄関まで。部屋には上がらない。お酒を飲んだあとの自分が信用できないからだ。何かやらかす前に、とすぐに帰っていた。今日は素面だし、高木は病人。何もやらかしようがない……はず。 「わざわざ来てやったのに」 「頼んでない」  そう言いながらも追い返すことはしない。廊下の奥、扉を開くとすぐにキッチンとダイニングが目に入る。テーブルに買ってきたものを並べながら、視線を巡らす。リビングにはソファがあり、壁にはドアがひとつ。寝室かな。会議中に見た部屋が思い浮かぶ。と、突然声が響いた。 「ハーゲンダッツ!」  キッチンにいた高木は、グラスとペットボトルを持ったままこちらを見ている。ハーゲンダッツのバニラが一番好きだと言っていたのはいつだったろう。酔っ払いの戯言みたいなものだったけど。覚えていてよかった。 「食べる?」  声をあげてしまったことを悔いているのか、少しだけ口が尖っている。それでも誘惑には勝てなかったらしい。 「……食べるに決まってる」  ぼそっと呟くように返事が聞こえかと思えば、もうスプーンを探している。嬉しそうだな。背中だけで伝わってくる。だからだろう、足が向いてしまったのは。  スプーンをふたつ手にした高木が振り返り、その近さにビクッと心臓が跳ねる。 「てか、お前の分もあるの?」 「当たり前だろ」  赤い顔のまま眉を寄せられ、もう一度触れたくなったが、スプーンを奪うことで衝動を抑える。 「味はお前から選ばせてやるよ」  バクバクと揺れ出した心臓に気づかないふりをして、向かい合う。座ると同時に高木がカップを手に取った。 「両方ともバニラじゃん」  なんだよ、と言いたげに見つめられ、ふっと胸が温かくなる。玄関で見たときよりも元気になっている気がする。よかった。自然と口元が緩む。 「好きだろ?」  問いかけたのは、何に対してか。自分でもわからなくて思わず視線を逸らした。 「好き、だけど」  高木がアイスを掬いながら落とす。アイスのことだよな。わかっていても、俺だったらいいのにと思ってしまって。だから、こぼれてしまった。 「……俺も」  じわりと舌で溶けるバニラ味。口で広がる冷たさとは反対に頬は熱い。エアコンのせいではないのはわかっていて、わかっているからこそ誤魔化すしかなかった。 「食べないと溶けるぞ」 「あ、うん」  何かが変わったような。何も変わっていないような。さっきまで当たり前に話せていたのに、今はふたりで黙々とアイスを食べている。窓から入る光は明るく、静けさがちっとも心地悪くないことに気づく。  ああ、やっぱり好きだ。ちゃんと伝えたい。高木が元気なときに。 「ちゃんと着替えろよ」  薬を飲み、ぽやっとし始めた高木を寝室へと促す。手伝ってやりたいけど、さすがにそこまではやりすぎだろう。赤くなった頬や熱で熟れた目をこれ以上間近で見るのは危険な気がする。  スウェットをベットに置いた高木が、そのままシャツに手をかけたので慌てて部屋を出る。いくらなんでも無防備すぎだろ。じわりと滲んだ熱を隠すようにドアを押す。まったく。 「早く治せよな」  じゃないと言えないだろ、とこぼしてしまった声は届いただろうか。目を覚ましたときに聞いてみるか。覚えていなかったら、そのときは……。
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