惜別の雨

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 その日、空には太陽の姿が一切見えず、代わりに灰白色の厚い雲が広がっていた。  そんな中、彼は河川の堤防を歩いていた。ランニングをする者、犬の散歩をする者、色んな人達とすれ違っていく。  しばらく足を進めていると、進行方向の左側にステンレス製の階段が現れた。彼はそれを下って河川敷に降りた。そして、すぐ近くにある屋根付きの長いベンチに腰を下ろした。  ここは彼にとってお気に入りの場所だ。といっても、頻繁に来るわけではない。悲しい時、思い悩んだ時など、主にネガティブな感情が沸き起こった時にだけ居座るのだ。  なぜなら、目の前で流れている河川の揺らめきを見ると、胸の暗い部分が浄化されるような気がするからだ。  今回は恋人の女性に振られた悲しみから来たのだ。つい先ほどのことだった。  原因は彼にあった。  彼は大学院の博士課程を修了した後、国の特別研究員として働いていた。ただ、それは任期付きの非正規の職だった。いわゆるポストドクターだ。  それでも、研究職に就きたいという思いをどうしても捨てきれなかった。限られた期間で目に見張る業績を残せば正規の職に就ける可能性があり、なによりも研究者は幼い頃からの夢だったからだ。  大丈夫、大丈夫。自分なら出来る。そう信じて全力を尽くしたが現実は甘くなかった。  気づけば、与えられた時間はとっくに過ぎ去り無職になっていた。  これからどう生きていこうか。周りの友人はすでに社会で活躍しているし、結婚している者もいる。  自分が置かれている状況を見てみると、不安や焦りが波のように押し寄せてきた。しかし、何とかなるだろう、と心の片隅で楽観的に思っていた。  ある日、仕事を失った旨を恋人に伝えた。当然、恋人は困惑した表情を浮かべた。  とはいえ、これからも自分と交際を続けてくれるだろう、と彼は高をくくっていた。かれこれ五年の付き合いで、いずれは結婚しよう、と約束していたからだ。  ところが、思いもよらぬことが起こった。恋人が別れたいと言ったのだ。  彼は驚き、理由を訊いた。  恋人曰く、彼が安定した職に就けていないため将来が考えられなくなった、とのことだった。  絶対に別れたくない。そう何度も彼は強い口調でいった。  しかし、彼の主張に対して恋人は一切聞く耳を持たなかった。おそらく、かなり前から意思を固めていたのだろう。  そうして彼は破局したのだ。  彼は、目の前で流れている川を見ながら深いため息を吐いた。  これまで何度か気を落としてきたが、今回は比べものにならない。立ち直るまで、かなりの時間を要する気がした。  しばらくすると、ポタポタと何かが屋根に当たる音が耳に入ってきた。雨が降ってきたのだ。それは、どんどん勢いを増している。  彼はハッとした。  しまった、傘を持っていない。帰りはびしょ濡れになってしまう。踏んだり蹴ったりな状況に、彼は再び深いため息を漏らした。  でも、いいか、と開き直った。  この雨脚が弱まるまで、いや、弱まらなくてもいい。当分ここに居座り、とことん傷心しようと思ったのだ。  彼の網膜に、雨の滴と川の揺らめきが映し出された。それに呼応するように目から涙が流れてきた。こんなにもの液体が溢れ出るのか、と驚くほどの量だった。  泣き顔のまま、どのくらいの時間が経っただろうか。長いようで短く、短いようで長かった気がする。  その時だった。  彼は何かの気配を感じた。その方向に顔を向けると、ビニール傘をさした女性が立っていた。  黒髪のショートヘアで、白いワンピースを身に纏っていた。年齢は三十くらいだろうか。彼よりも少し下に見えた。美麗な人だった。 「あの……大丈夫ですか?」彼女は眉をひそめて訊いてきた。 「あっ……」彼はすぐさま視線をそらして目元を拭った。「だっ、大丈夫です……」 「……何か悲しいことでもあったんですか?」  彼女の問いに答えるため、彼は目を戻した。「ええ……。まぁ……」  そうですか、と彼女は呟いた。「実は私もです。ついさっき彼氏に振られたんです」そう言ってから傘を閉じて、彼の横に腰を下ろした。  シャンプーの甘い香りが漂ってきた。 「そうなんですか……。奇遇ですね。僕もつい先ほど振られたたばかりなんです」 「えっ、本当ですか? 凄い偶然」彼女は彼に顔を向けて言った。それから視線を川に移した。「ここ好きなんです。悲しいことがある時だけですけど。この水面の揺らめきを見ると、胸の苦しみがなぜか洗い流されるような気がするんです」  彼は大きく目を開いた。彼女と相通じるものがあったからだ。「僕も同じです。悲しいことが身に降りかかった時は必ずここに来て、この光景をひたすら見続けるんです」川を指した。 「凄い。それも一緒。私たち似たもの同士ですね」 「ええ。そうですね」  その後、沈黙の時間が訪れた。  雨音と川の流れる音が聞こえてくる。  そんな中、口火を切ったのは彼女だった。 「五年、付き合った彼氏だったんです……」  突然の告白に少し驚いたが、彼は話を聞くために彼女を見た。  彼女ははかない表情を浮かべながら続けた。「結婚の話も上がっていました。でも、私の仕事柄、一緒にいる時間がどんどん減って、お互いすれ違うようになったんです。そしたら、彼は他の女性を好きになってしまいました。それで、別れてほしい、と告げられたんです」 「そうですか……。それは気の毒に。ちなみに、お仕事は何を?」 「看護師です」  確かにな、と彼は思った。夜勤があるため、お互いの時間を共有することが難しくなったのだろう。しかし、この状況でそんなことを口に出すわけにはいかないので、彼なりのなぐさめの言葉をかけた。 「それは大変なお仕事ですね」  彼女は頷いた。「……あの。差し支えなければ、どうして失恋したのか訊いてもいいですか? なんか親近感が沸いて気になるんです」  うーん、と彼は唸った。どうしようか迷ったのだ。でも、話せば気分が晴れるかなと思い了承した。そして、ことのあらましを今日会ったばかりの彼女に打ち明けた。  彼の話を聞き終えた彼女は「辛かったですね……」と小さな声で言った。「けど、新しい出会いの始まりと思えばいいんですよ」 「たしかに、その通りですね」彼は微笑しながら返した。「何事もプラスに捉えないとだめですね」 「そうですよ。生きいてれば辛いことの方が多いと思いますけど、これからきっといいことがあるはずです」 「そうですね。これからも、いろいろあると思いますけどお互い頑張りましょう」 「はい」彼女は白い歯を覗かせた。  二人は視線を外し、川の方へ目を向けた。  再び水の音だけが鼓膜を揺らす時間が流れた。  眠くなってしまうほど聞き心地がよかったため、彼は瞼を下ろした。  すると、彼女が「あの」と声をかけてきた。  彼はハッとして顔を向けた。「どうかしました?」 「私がよく行く居酒屋がこの近くにあるんですけど、もしよければそこで一緒に飲みませんか? もっとお話ししたいなと思っているんです」 「ああ……」彼は言葉に詰まった。名前も知らない美女に誘われたからだ。 別れたばかりといえど、ここで簡単に応じるのはさすがに節操がないような気がする。  彼は腕を組み、逡巡した。  ほどなくして、酒を飲むことも気晴らしにはなるかなと思い、「いいですよ」と返答した。 「よかった。それじゃあ、早速行きましょう」彼女は傘に手を伸ばし、ベンチから腰を上げた。 「あっ、あの……」彼は彼女を制止するように掌を向けた。「もう少し雨脚が弱まってからにしませんか? 僕、傘を持っていないので」  彼女は手ぶらの彼を見た。それから一拍置いた後、「じゃあ、一緒に傘に入りましょう」と言った。  予想だにしない発言に彼はドキリとした。「いっ、いいんですか?」 「いいに決まってるじゃないですか」さあ、と彼女は言って彼の手をとった。  二人で寄り添い一本の傘に入った。  彼女との距離が近くなったことで、先ほど以上に甘い香りが鼻腔を刺激した。彼は胸が熱くなるのを感じた。  ベンチから移動して堤防を歩いている最中、いろいろと話をした。その中で、彼女が彼の家の近くに住んでいることがわかった。  彼女は目を丸くして、「私たち共通点が多いですね」と明るい表情で言った。  彼も驚きを隠せなかった。こんなことがあるのか、と思った。  もしかしたら彼女が運命の人なのか―。  いや、そんなわけない。ただ偶然が重なっただけだ。彼はそう言い聞かせて、胸のざわめきを落ち着かせた。  しばらく足を進めていると、向こう側から男女二人組が歩いてきた。その二人も一つの傘に入っていた。おそらくカップルだろうな、と彼は推測した。  顔が確認できるところまで近づいたところで、彼はチラッと二人組に視線を向けた。  すると、女性の方と目が合った。その人物を見て彼はぎょっとした。女性の方も同様の表情を浮かべた。  彼は思わず視線をそらし、女性の隣を歩く男性に目を向けた。背が高く、高級感を漂わせるような光沢のあるスーツを着ていた。こちらの男性も同じく、その表情に困惑の色が滲んでいた。  それから何も言わずにすれ違い、別々の方向に歩みを進めた。  彼はキョロキョロと周辺に視線を配らせた。今し方、目にした光景に動揺したからだ。  ふと、視界に隣の彼女が入った時、心なしか肩が震えているように見えた。  その後、彼と彼女は一切会話を交わさなかった。  この時、二人は同じことを考えており、それを口に出そうか迷っていたのだ。  それは次のような内容だった。  さっきすれ違った二人組の片方が元恋人です。 (完)
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