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追いかける
オフサイドにならないギリギリで飛び出した。
日高君は自慢の俊足でボールを追う。
味方がコーナーに向かって出したパスは速く、角度も厳しい。キラーパスだ。
観衆からがっかりしたため息がもれる。ダメだ、間に合わない。
日高君は冷静だ。必死な様子も、泥臭さも感じさせず、当然のようにボールに追いつく。
敵が追ってくるが、間に合わない。
日高君の、低くて速いセンタリングに合わせて、味方のフォワードが走り込んでくる。
キーパーが飛び出すのを一瞬躊躇するような、ゴールから微妙に離れた位置に出されたマイナスのパスは、フォワードには最高に蹴りやすい。
キーパーの動きを見て、インサイドで軽く、ゴールの隅に向かってボールを蹴る。
ネットが揺れる。
観衆の声。キャーキャー騒ぐ日高君のファンの女の子達。コート内やベンチの選手達の興奮した声。ピョンピョン跳ねる姿。
日高君はそれらを他人事のようにスルーして、校舎の三階にある生徒会室に視線を向ける。
私は生徒会室の窓のサンに肘をつき、グラウンドを見下ろしている。
彼の唇が動いて、私になにかを伝えた。
私の恋人はどんな気持ちでボールを追いかけていたんだろう。
高校の合格発表の日。
正面玄関に合格者の番号が貼り出されるので、私は朝から確認に出向いた。
公立の高校でも、インターネットで発表がある学校と、昔ながらのやり方を続ける学校とがあり、私が受験した学校は後者だった。
全国的に見たら上が何校もあるが、この街だけで見たら最高レベル、という微妙な位置付けの公立の高校。その高校を受験する以外に、私に選択肢はなかった。
真面目だけが取り柄で、小学校で児童会、中学校で生徒会の役員をやり、勉強だけはよくできた。いや、努力をしてきたのだ。
私にはなにもない。ちやほやされるほどのかわいさも、愛嬌もない。ずば抜けた運動神経もない。将来職業にできそうな芸術的な腕前もない。
だから真面目に、地道にコツコツ努力することを選んだ。そしてみんながめんどくさがる生徒会の役員を引き受けて、本当にめんどうな雑用のようなことをこなしてきた。
だからテストも内申も自信があった。
貼り出されている発表と、受験票の番号を照らし合わせた。
あった。まあ、あるだろうな。ずっと、とても疲れていた日だって、ちゃんと勉強してきたんだから。
どこか冷めた気持ちを引きずって、私は混みあっている高校のロータリーから出ようとした。
合格を喜び合っている人達、泣いている人達、集団で来ているどこかの中学生達。部活の勧誘に現れた高校生。
人が多くて、なかなか帰れず、困っていたときだった。
「松野さん!」
呼ばれて振り返ると、同じ中学の校章をつけている男子が、赤い顔をして、どこか落ち着かなそうに、頭を掻いていた。
あー、名前は知らないけど、たしか、サッカー部だった男子……。人気があって、目立ってた……。
「松野まことさん」
「はい?」
「オレ、日高恭一。同じ中学の……」
私は黙って、ただ頷いた。
「えっと……えっとぉ。オレは全然勉強できなくて……」
「は?」
不合格だったのかな?こういう時、どんな言葉をかけたらいいの?
「サッカーばっかりやってて、勉強なんてちゃんとやったこともなくて……でも生徒会の仕事をちゃんとこなしながら、定期テストもいつも上位だった松野さんをずっと見てて……松野さんてかっこいいなって思ってて……オレ……」
何が言いたいの、この人。一応褒めてくれてるのかな。
「松野さんを追いかけていきたくなって、必死に勉強したんだ。そして、オレ、番号、あった。松野さんのおかげ」
あ、合格。良かった。もう、紛らわしい男子だなあ。慰めの言葉をまだ思いついていなかったんだから。
「お、おめでとうございます。私はなにもしてないけど」
「そんなことない。オレ、松野さんを追いかけるって決めたんだ」
「はあ?」
「高校生のあいだに、テストで松野さんより上になる。そしたら……そしたらさ、オレとつきあってほしい!!」
「…………」
「…………」
え?
なにやら人混みが一斉に私達を取り囲むように、注目していませんか?
合格発表の日。
私は日高君に宣戦布告のような、恋の告白をされた……たぶん。
あんな告白をされたら、日高君を意識してしまうのは当然で。
日高君がよく私を見ている気がするのは私の自意識過剰なんかでは、絶対ない。
廊下ですれ違うとき。
登校すると、サッカー部がグラウンドで朝練をしているとき。
体育でドッジボールをしている女子を、遠くから男子が眺めているとき。
お昼休みに二階の渡り廊下から中庭を見下ろすとき。
私はいつも日高君の視線を感じていた。
いや、いつのまにか私が日高君の姿を探すようになったのかもしれない。
まだ好きでいてくれてる?
私を追いかけてくれてる?
こんな、なにもない私でも?
私は確認するように、日高君を探していた、きっと。
放課後。
どこかの教室で談笑している女子達の、一日で一番ワクワクしている明るい声が響く。
吹奏楽部の基礎練習の音が、夕方を伝えている。
私は廊下の掲示板に貼り出された定期テストの結果を見上げている。
一番上に私の名前。
『テストで松野さんより上になったら、つきあってほしい』
あの日の日高君を思い出す。
私はずっと、日高君を見てきた。日高君は毎回この上位者表に名前が載っていた。サッカーでは多くの部員の中からレギュラーに選ばれていた。
私を本気で追い続けてくれていたということだ。
そんな姿を一年半も見てきて、心が動かないわけがない。
「こういう場合は、上がないからさ……オマケしてくれない?」
振り返ると、日高君が掲示板の前に佇む私に向かって、ゆっくり歩いてきていた。
私は再び、上位者表を見上げた。
一位は二人。松野まことと、日高恭一。
「すごいね、日高君。部活と両立できるなんて」
「松野さんだって生徒会の仕事と両立してるじゃん」
「運動部のきつさに比べたら、私なんて……」
「生徒会副会長、かっこいいよ」
好きで副会長になったわけじゃない。なんにも取り柄のない私を強そうに見せるための甲冑にすぎない。私にはなんにもないんだから。
日高君に好かれているという事実だけが、私の承認欲求を満たしてくれていた。
日高君が一位になったのは、こんな私を欲してくれたからだよね?それほどがんばってくれたんだよね?それだけの価値が私にあるってことだよね?
「日高君……私から言ってもいい?」
「なにを?」
私は深く息を吸って、胸に手を当てた。激しくなった鼓動はおさまらない。
「好きになりました。つきあってください」
サッカー部のエースと生徒会副会長がつきあっている、という噂はあっという間に広まった。
一年半前の日高君の告白を覚えていた人が多かったので、たいていの人は日高君の片想いがやっと成就したと、好意的に捉えてくれた。
初めての特別な関係に、私は浮かれていたと思う。
毎晩一時間以上のメッセージのやり取り。
三階の生徒会室からグラウンドを見下ろし、彼が気づくと、小さく手を振ってくれること。(視力が良いことが幸いした。)
自転車で二人乗りをして、警察に注意されること。
自販機でジュースを買って、飲みきれなかったら、彼が残りを飲み干して、
「間接キスとか思ってる?」
と笑ったこと。
すべてがキラキラしていて、私はいつもドキドキして、振り回されるようにつきあった。
気づいたら、追いかけているのは私で、彼はもう私を追いかけていなかった。
「昨日、ずっとメッセージ待ってたんだよ」
待ち合わせした駐輪場に彼がやっと来たとき、私は開口一番、彼を責めた。
「あー、ごめん。寝てた。今、大会前じゃん?練習きつくて。朝練もずっとあるし」
「だったらひと言、『今日はごめん』てメッセージくれれば、私だって待たなくて済んだのに。思いやりないよね」
「……約束してるわけじゃないし」
「え?」
「……」
つきあって三ヶ月になろうとしていた。
街はクリスマスムード一色。
冷たい手を彼が握って、暖めてくれることを期待して、私は手袋をしなかった。
でも彼は気づかない。
冬休み前の期末テストの結果が掲示板に貼り出された。
みんな私を気遣って、何も言わない。ただ、ヒソヒソ話す声がいやにはっきり聞こえるだけ。
「松野さん、名前がないの、初めてじゃない?」
「二十位より下だったってことでしょ?」
成績上位表は、学年で上位二十位までの名前と点数が載る。
日高君は三位に名前があった。そこだけが、なぜか暗く見える。
放課後、生徒会室の窓からグラウンドを見下ろした。
サッカー部が練習試合をしていた。
日高君の絶妙なセンタリングから、得点した。
選手や観衆がワーワー興奮していたときだった。日高君が生徒会室のほうを向いた。
誰も気づいていない。
日高君と目が合った。
日高君の唇が動いた。声は出していない。
さよなら。
日高君はきっと、追いかけるのが好きな人だ。
私に追いついてしまったら、もうつまらなくなってしまったんだ。
私にはなにもないから。追いついてみたら、なにもない人間だったから、すぐに飽きてしまったんだ。
俊足でボールを追っている日高君を見ていたら、私はボールが羨ましくて、少しだけ泣いた。
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