花の下にて春死なむ

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 鈴の音が、部屋中に響く。  大人の背丈を優に超える仏壇に手を合わせ、いつものように目を閉じた。口にするのは念仏だ。  目を開ければ妻の遺影が微笑んでいる。交通事故で妻と膝下を失って、五年。俺は毎日、朝昼晩の食事を終えるとここに来ていた。毎日膝で床を擦るように歩くせいで、仏間の畳はぼろぼろになっている。またぞろ、畳を替えなければ。 「……そういえば、今朝は修一(しゅういち)の夢を見たよ。話したことがあっただろう? 幼馴染みで、高校まで一緒だった」  朝、伝え忘れていたことを仏壇に告げる。応えはないが、これが俺の日課の一つだ。どんな些細なことも、妻に伝える。それは記憶の整理も兼ねていた。 「高校の卒業式の夢だった。あれから三十年近く会ってないが、元気にしているだろうか。……お前には一度も会わせることができなかったな」  夢の内容は記憶の通りだった。猛吹雪になった高校の卒業式、地元の大学に進学する俺は、大学進学のために上京する修一と帰宅もせずに教室で話していた。卒業式は終わり、クラス別の送別も終わっていたが、帰宅しようにも天候が悪すぎたのだ。  雪にまみれた窓ガラスに、修一の白い顔が映っていたのをよく覚えている。あいつは昔から病弱で、その上喘息持ちだった。自然、あまり外に出たがらず、元よりの白さもあっていつも青白い顔をしていた。あいつは最後までそんな顔色で、雪のように儚く微笑んでいた。今にして考えてみれば、あの日もあまり体調がよくなかったのかもしれない。 「思えば、最後だというのに本のことばかり話していた気がするよ。あれも俺も、本の虫だったから。あちらでいい古本屋を見つけたら教えてくれと言って、別れたんだがな。……あれから、葉書一つ寄越してくれなかった」  愚痴っぽくなり始めて、俺は喋るのを止めた。言っても詮無いことだった。それに、修一には修一の事情があったんだろう。あれは、実の兄にもろくに連絡を寄越さないらしいから。  一人息子の准(じゅん)が付けてくれた簡易的な手すりを掴んで、ゆっくりと膝立ちになる。何年も膝で歩いているせいか、膝の皮は厚くなっていた。多少のことでは痛みを感じない。  俺が歩き出したところで、店表の方から来客を告げる電子音の呼び鈴が鳴った。曾祖父の代から続けている瀬戸物屋は、今は准が取り仕切っている。四十五にして、俺は早くも隠居の身だった。……この足では仕方ない。義足で歩く訓練はしたが、瀬戸物を持ち歩く自信はなかった。  だが、仕事がないわけではない。足を失ってから始めたネットショップの管理は、表に出ない俺の役目だ。注文のやり取りは、時に海を越えることもある。やりがいのある仕事だった。  今日も眼鏡を掛け、居間にある仕事用のパソコンの前に陣取ってメールの確認を始めた。いくつかのメールの中には、英語のものもある。電子辞書を片手に、俺はその文章の翻訳を試みた。 「……これでよし」  思わずそう呟いてから、俺はメールを送信した。結構な長さだったこともあり、小一時間はこの英語のメールと格闘してしまった。他のいくつかのメールに返信すれば、すぐに午後の茶の時間になるだろう。  固くなった肩を少し回して、眼鏡を外す。こめかみを軽く揉んでから、疲れた目を窓の外に遣った。  竹垣に守られた春先の庭には、季節を感じさせるような花などない。妻が生きていた頃は彼女がなんだかんだと庭を弄っていたが、今ではすっかり寂れてしまった。  溜息が勝手に漏れる。妻は浄土で、怒っているだろうか。それとも、呆れているだろうか。  詮無いことを考えてから、視線をパソコンに戻そうとした、その時だった。  竹垣の隅にある板戸が、ゆっくりと開いた。准は店にいるはずで、他にあんなところから入ってくる人間など……。  ひょろりとした人影は、黒いダブルのコートに身を包んでいた。少し白髪の混じる髪が、顔を上げた拍子にさらりと揺れた。その顔は、かつて確かに見知ったものだった。  ……まさか、あれは。でも……なぜ? 「……修一?」  声など届くはずもないガラス窓の向こうで、その男は微笑んだ。今朝の夢と同じ、雪のように儚い笑みを浮かべ、修一は寂れた庭に入り込む。その足取りは幼い頃に遊びに来た時と同じだが、顔も体格も成人のそれだ。違和感が、俺の混乱に拍車を掛ける。  窓の向こうでは、修一が近付いてきていた。その口が、「顕(あきら)」と俺の名前を呼ぶ。  慌てて膝立ちになり、少しバランスを崩しつつも三日月型の鍵を開けた。初春の冷たい風が、エアコンに温められた頬を撫でる。 「顕、久し振り」 「修一、お前、どうして……!」 「……うん、まぁ、色々あってね」  高校の時と変わらない喋り方に反して、目元や口元には小皺が刻まれている。それでも、俺に比べればまだ若く見えるだろう。コートの上からでも分かる細身の体は、相変わらず病弱そうだった。  手袋に包まれた手で土産物とおぼしき紙袋を掲げ、修一は困ったように笑った。 「突然ごめん。隣に引越してきたから、挨拶にと思って」 「隣? 引越? 待て、お前の家は」 「兄さんたちの家族がいるから、一人とはいえ僕が入るのはちょっとね。お互い、居づらいだろうし」  独り身、なのか。……いや、それよりも、聞きたいことが山ほどある。……ありすぎて、どれから手を付けたものか。 「とにかく上がれ。すぐに茶の用意をさせる」 「いいよ。これ渡したら、すぐ帰るつもりだったから」 「そういうわけには……」  振り返ろうとして、膝がバランスを崩す。後ろで、修一の息を呑む音が聞こえた。ああ、そうか……。 「……顕、その足」 「話したいことが山ほどある。上がってくれ」  振り返らず、俺はそれだけ言った。小さな肯いの声を聞いてから、店の表へと歩き出す。ずる、ずると響く重い音は、聞き慣れていたはずなのに……なぜか、ひどく耳障りだった。 「准、茶を頼む」  久し振りに店までやってきた俺を見て、息子は目を丸くした。幸い、店内に客はいない。 「どうなさったんです? お茶の時間まで、まだだいぶんありますよ」  妻譲りの丁寧でおっとりとした喋り方をして、准は首を傾げる。 「来客だ。幼馴染みが来た」 「来たって……、裏からですか?」 「ああ。とにかくすぐに出してくれ」  ひどく、気が急く。息子に言うだけ言って、俺はすぐにまた居間へ戻った。久し振りに激しく動いたせいか、春先だというのに背中が汗ばむ。  修一は大人しく居間のテーブルの前に座っていた。脱いだコートはやや乱暴に畳まれ、膝の横に置かれている。昔から、繊細そうな見かけの割に粗雑なところのあるヤツだった。 「待たせたな」 「ううん。……それより、その……聞いていいのかな?」  言葉を選びながら、修一は向かいに座った俺の足を見た。 「五年前に、事故で、な。あれと一緒になくした」  茶箪笥の上に置かれている、家族三人で撮った写真をちらりと見遣る。修一もまた俺の視線を追い掛けてから、遠い目をした。 「そっか……。今は、息子さんと二人?」 「ああ。店は息子に任せている。俺はこっちだ」  パソコンを顎でしゃくると、修一は興味深そうにディスプレイを覗き込んだ。 「ネットショップ?」 「これが中々繁盛してな。暇をしなくて済む」 「ふぅん……。なんか、意外だよ。こういうの、あんまり好きじゃないと思ってた。勝手に」 「最初は、俺も抵抗があった。顔も見えない客に品を売るというのはな。だが、慣れればどうということもないさ。海外からも、時々注文が来る」 「へぇ、すごいじゃない。ちゃんと英語で返事できてる? いっつもテスト前になると泣きついてきてたけど」  悪戯っぽく笑って、修一はパソコンの隣に置きっぱなしにしてあった電子辞書を拾う。全く、めざとい。 「最初は戸惑ったが、今は支障ない。……俺のことより、お前はどうしてるんだ」 「仕事? んー、まぁ、ぼちぼち」  電子辞書を置いて、修一は肘を突いた。目が、泳いでいる。 「引越してきたと言ったが、なぜ? 仕事はどうしたんだ」 「家でできるから、大丈夫だよ。出社もしなくていい」 「……なんの仕事だ? まさか内職ではないだろう」 「大した仕事じゃないよ」  あからさまに隠されている。尚も言い募ろうとしたが、「失礼します」という准の声に阻まれてしまう。その声を聞いて、修一は座を正した。 「突然お邪魔してしまって、ごめんね」 「いえ、お構いなく。ゆっくりなさってください」  准は膝を突いて、急須と二人分の湯飲みをテーブルに置く。 「これが息子の准だ」 「初めまして。小田(おだ)准です」    「ご丁寧にどうも」  准に倣って、修一もまた頭を下げた。 「准、こいつが幼馴染みの丈原(たけはら)修一だ。本町(ほんまち)の旅館の次男に当たる」 「ああ、あの〈たけはら〉さんの。いつもご贔屓いただいて、ありがとうございます」 「継いだのは兄さんだけどね。それにしても、大きい息子さんだねぇ。今いくつ?」 「二十二です。この間、大学を卒業しました」  膝を突いたまま、准は盆を抱えた。店が気になるのだろう。顔には出さないが、これで責任感の強い子だから。 「そっか。店は楽しい?」 「はい。おかげさまで」 「それはなによりだ。お父さんとは上手くやってる?」  准が頷くと、修一は満足そうに笑ってから、「引き留めてごめん、お仕事頑張ってね」と言った。折しもその時、来客を告げる呼び鈴が鳴り、准は簡単に挨拶をして居間を出て行った。 「よく、似てるね」  准の去っていた方を見つめたまま、修一は感慨深そうに呟いた。 「見た目はな。性格は妻に似た」 「そんなことないよ。顕にも似てる。……ほんとに」  修一は念を押すようにそう言った。それから、准の持ってきた湯飲みに口を付ける。茶は店内でお客さんと長話をする時に出すものだが、俺への客にそれを出したのは本当に久し振りだった。 「お前は……、結婚してないのか」 「ああ。一人の方が気楽だったからね。継がなきゃいけない家もない。気ままにやってるよ」  ほっと一息吐いてから、修一は軽く肩をすくめる。恋愛事に興味を持てないのは、昔から変わってないらしい。 「ずっと……、一人だったのか?」 「え?」 「……あちらに友人はいないのか」  それは奇妙な独占欲だった。口に出してからまずいと思ったが、修一は気にした風もなく首を横に振る。 「さすがに、何人かはいるよ。でも、友達がいるからってあっちに残ってても、彼らが僕の病気を治してくれるわけじゃないから」  病気。さも簡単にその言葉を口にして、修一は苦笑する。 「……まだ、喘息が出るのか?」 「覚えてたんだ」 「もちろんだ。中学を出るまで、しょっちゅう発作を起こしていたじゃないか」 「はは、顕にはたくさん迷惑掛けたね」  ……これも、うやむやにするつもりか? 昔話に流れてしまいそうな会話を、俺は現実に引き戻した。 「喘息がひどくなったからこちらに越してきたのか?」 「んー、まぁ、そんな感じかな。これでも、今まで騙しだましやってきたつもりだったんだけど……」  節くれ立った白い手が、のど元をさする。田舎にいてもひどい発作が起きていたのだ。都会ならばなおのこと苦しかっただろう。それでも三十年近く東京に住んでいた修一に、尊敬にも似たものを感じる。うやむやにされた仕事のことと、関係があるんだろうか? 「それにしても、上手いこと空き家があってよかったよ。本が多いから、あっちで住んでたアパートじゃあ狭くて仕方なかったんだ」 「お前も相変わらず、本の虫か?」  少し嬉しくなって確かめると、案の定、修一は頷いた。 「顕は、今なんの本読んでる?」 「竹原(たけはら)晃(こう)の〈浅草寺(せんそうじ)の鴉〉だ。最近は、あの人の本ばかり読んでいるな」  一瞬、修一の眉がぴくりと動いた。苛立ったと言うよりは、少し驚いたような顔をしている。無理もないかもしれない。俺は若い頃、海外文学ばかり読んでいたからな。 「時代小説も、読んでみると面白いものだな。あの作家はエッセイも書いているらしいから、あらかた読み終わったらそちらにも手を出すつもりでいる」 「そう、なんだ……。僕は、あんまりいい評価聞かないけどな」 「他人の評価は問題ではないさ。俺が面白いと思えば、それだけで読む価値がある」  そう言うと、修一は押し黙ってしまった。……あまり、好きではない作家なんだろうか。 「お前は、なにを読んでるんだ?」 「え? ああ、えーと、小説じゃないんだけど、西行(さいぎょう)法師の研究をしてる人の本を読んでるよ」 「西行? 仏教書か?」 「いや、文学書。思想とかよりも、和歌の研究がメインかな。これが案外、面白くてね」  そこからしばらく、本の話で盛り上がった。何十年経っても、互いに根本的には変わっていないらしい。それが妙に嬉しくて、あちらこちらに話を転がしてしまう。  気付けば、時計の長針が一つ進んでいた。修一はバンドの太い腕時計をちらりと見やる。 「ところで、さ」  温くなった茶で喉を湿らせてから、修一は改めて座を正す。何事かと思いつつも、俺もできるだけ背を伸ばした。正座ができない俺は、どうしても修一を見上げる形になってしまう。 「もし、邪魔じゃないなら……、明日もこの時間に、お茶を飲みに来ていいかな?」 「改まって、なにを言うかと思えば……」  俺がそう言うと、修一はなぜか少し寂しそうな顔をした。殊更なんでもないような顔をして、俺は笑ってみせる。 「遠慮するような仲じゃないだろう。いつでも来い。この足では外出する用事もないから、昼間はたいていここにいる」  自慢になるようなことでもないが、できる限り力強く言った。修一の顔に差した影を消してやりたかったのだ。 「……うん。ありがとう、顕」  願った通り、修一は笑った。だがそれは、あの高校最後の日に見せたものと同じ儚い微笑みで、俺はわけもなく虚しさを覚えてしまう。  それから少しして、修一は帰っていった。 「昨日も修一が来たよ」  昼食後、いつものように妻の仏前に手を合わせ、声を掛ける。 「いいと言うのに、また菓子を持ってきたんだ。これでは太ってしまうな」  言いながら、修一が持ってきた菓子をいくつか仏壇に供える。修一が突然やってきてから数日、これも日課になりつつあった。 「あれが来ると、どうも食が進んでしまう。脂肪が付くと義足が合わなくなるから、体型には気を付けろと医者に言われているんだが……」  膝を擦り、苦笑してみせた。妻が自分の体型を気にしていたのを思い出したのだ。あの時はまるきり他人事だったが、今なら彼女の気持ちも少し分かる気がした。  それから二言、三言と話し、俺は仏間を出た。膝を引きずって居間へ向かう。今日は定休日で、准が掃除機を掛けているところだった。  せっかくなのだから、友人と遊びに行ったり趣味に費やしたりと、他にいくらでもやることがあるだろうに、息子はいつも休日になると家事をこなしている。母もなく、足の悪い俺の面倒を見なければならない息子には、全く頭が上がらなかった。  なにかできることはないかと部屋の中を見回していると、准が一通り掃除を終えたのか掃除機を止めた。 「お父さん、今日も丈原さんはいらっしゃるんですか?」 「ああ、多分な」 「毎日、有難いことですね」  准は掃除機を片付けながら、そんなことを言い出す。 「有難い?」 「ええ。丈原さんがこちらにいらしてから、お父さんは笑うことが増えましたから」  ……そう、なんだろうか。言われてみればそうかもしれない。 「顔色もずっと良くなりましたし、毎日楽しそうですよ。十歳は若返って見えます」 「それは言い過ぎだろう」 「そんなことありませんよ」  穏やかに俺の言葉を否定してから、准は居間の隣の台所へ向かう。ほどなくして、電気ポットから湯を出す音が響き、急須と湯飲みが載った盆を手に准が戻ってくる。膝立ちのままぼけっとしていたことに気付き、俺はテーブルへ向かった。俺が座るのを待ってから、准は「どうぞ」と言って湯飲みを互いの前に置く。 「さっきの話ですけどね」  仕切り直しとばかりに茶を一口飲んでから、准は口を開いた。 「こんなにお父さんが楽しそうにしているのは、事故の前でも見たことがありませんよ。まるで、……そうだな」  ふっと、准は微笑む。俺と似た顔でも笑うと人懐こく見えるのは、中身が妻に似たからだろうな。そんなことを考えながら呑気に茶を飲んでいた俺に、息子は爆弾を落とした。 「まるで、恋してるみたいです」 「は、はぁ!? うっ」  茶、茶が、気管に……。 「だ、大丈夫ですか? すみません、ものの喩えのつもりだったんですが……」  背中をさする准の手が熱い。なんとか息を整えたが、酸素不足で頭がぼうっとする。全く、こいつはいきなりなにを言い出すんだ……。 「恋をすると急に綺麗になるとか、若返るとか言うでしょう? そういうものに近いような気がするんです」 「あのな……、相手は男で、しかも俺はもう四十五だぞ。喩えるにしても、もっと他のものがあるだろう……」 「本当にすみません。こんなに驚かれるとは思いも寄りませんでした」  やれやれ。読書をしないからそんな安易な喩えしか出てこなくなるんだ、きっと。小さい内に、しっかり習慣づけてやればよかった。 「ああでも、食事量が増えるのは少し困るかもしれませんね」  俺の後悔も知らず、准はそんなことを言い出した。先程、俺が危惧していたことを、准も気にしていたらしい。 「……そうだな。修一にも、わざわざ菓子を持ってこなくても良いと言っているんだが」 「そうだ」  准は声を弾ませて俺を見下ろした。 「こちらからもなにかお茶請けを買ってはどうです? お菓子ではなくて、果物とか……なにかヘルシーなものを」 「果物、か」  こくり、と准は頷いた。どこか幼い仕草に、小さな頃の息子を思い出す。同時に、ずっと昔の修一も。 「……そうだな」  それも、いいかもしれない。素直にそう思えた。修一にばかり買わせるのも気が引けていたところだ。 「車を出してくれるか? 今からならまだ間に合うだろう」 「はい。ついでに夕飯の買い物もしてきますね」 「……ん、……ああ」  そうか。……そうだな、俺は留守番していた方がいいか。 「お父さん? ……一緒に、行きますか?」  准は少し驚いてから、苦笑した。よほど残念そうな顔をしていたらしい。……これでは、どちらが子どもなのか。 「……いや、構わん」 「来てくださいよ。僕じゃあ丈原さんの好き嫌いが分かりません。いつもの時間まで、まだ余裕があるでしょう? お願いします」  下手に出れば俺が断れないのを知っていて、准は丁寧に頭を下げた。頭が上がらないのは、俺の方だというのに……。 「分かった。義足を付けておくから、お前は車を裏に回してくれ」 「はい。焦らなくて良いですから、丁寧に付けてくださいね」  満足そうに笑って、准は車の鍵を片手に部屋を出て行った。どうも、あれの口車に乗せられている気がするが……、まぁ、悪いことではないか。  珍しく前向きな気分で仕舞いっぱなしになっていた義足を取り出して、俺はさっそく装着を始めた。足の形が変わってなければいいが……。  買い物など、いつ振りだろう? あれやこれやと買っている内に結構な時間になり、俺達は慌てて帰路についた。どうにか茶の時間には間に合いそうだ。 「苺、いい匂いですね」 「ああ」 「喜んでくださるといいんですが」  話しながら、准がハンドルを切る。家まではもうすぐだった。  長らく空き家だった隣家が、視界の先に見え始める。今は修一の家になっているそこには、古い桜の木が植わっていた。位置の関係で我が家からは見えないが、もう少し経てば綺麗な花を咲かせるだろう。  そういえば、ここのところ花見などさっぱりやらなくなったな。准は俺の代わりに付き合いで出かけることもあったが、俺はすっかり出不精になってしまっている。外出する動機をくれた修一には、感謝しなければ。 「あれ? 丈原さんじゃありませんか?」  准が声を上げる。ひょろりとした後ろ姿は、確かに修一だ。車を修一の横に付けると、准はパワーウィンドウを開ける。 「丈原さん、こんにちは」 「准くん? 顕も……。出掛けてたのか?」  突然声を掛けられた修一は、目を丸くして首を傾げる。 「ちょっと買い物にな。お前、苺はまだ好きか?」 「え? 好きだけど……」 「ならいい。荷物を片付けているから、ゆっくり来てくれ」  きょとん、とした修一を置いて、准に出発を促す。准は苦笑して、修一に頭を下げてから車を出した。ほどなく家の裏に着き、車を止めた准は荷物を下ろし始める。俺は家の鍵を開け、苺の入った軽い袋を手に提げた。 「大丈夫ですか? お父さん」 「これくらいなら平気だ」  久し振りに使った義足は少し窮屈だったが、思いの外スムーズに歩けた。袋を提げたまま、俺は裏口へ向かう。  逸る気持ちを抑えて、しばらく履いていなかった靴から作り物の足を引き抜く。苺を片手に居間へ向かえば、修一はもう窓の外にやってきていた。 「すまん、待たせたか?」  窓を開けると、修一は首を横に振って笑った。 「さっき着いたところだよ。お前も知ってるだろ?」  苦笑されてしまった。……まぁ確かに、年甲斐もなくはしゃぎすぎているかもしれないな。 「それより、苺がどうかした?」 「ああ、いつもお前にばかり菓子を持ってきてもらうのもどうかと、准が言い出してな。苺を買ってきたんだ」  提げていた袋を軽く持ち上げると、今度は困ったように笑う。 「そんな、気にしなくてもいいのに。僕が勝手にやってることなんだから」 「そういうわけにもいかん。それに……」  いや、待て。義足が合わなくなると言えば、変に気を遣わせてしまうかもしれないな。……どうしたものか。 「……その、妻も、好きだったんだ。あれに供えるのも兼ねているから」  咄嗟にひねり出した方便は、我ながら無理があると思う。だが、修一は少し目を丸くしてから、こくりと頷いた。 「そっか。それなら、僕もおこぼれを預かろうかな」 「そ、そういうわけでは」 「はは、冗談だよ」  軽い笑い声を上げながら、修一は居間へ上がった。コートを脱ぐ修一の表情は、俺からは見えない。  ……気のせいだろうか。一瞬だけ、修一があの儚げな笑みを浮かべた気がしたのは。  その後のあいつはいつも通りによく喋り、よく笑っていた。だから俺も、気のせいだと思うことにした。心の隅に残る違和感に、蓋をして。  その日から、俺は一日おきに果物を買いに行くようになった。准が車を出せる閉店後に出掛けるのだ。義足を付けることも、苦にはならなくなっていた。  修一が菓子を持ってくるのも二日に一度になった。そして、なにを話したわけでもないというのに、あまりカロリーの高い菓子は持ってこなくなった。妙に気を遣うようになったから、義足のことを調べたのかもしれない。隠したのも、あまり意味はなかったな。  そうこうしている内に、気が付けば修一が隣に越してきてから数週間が経っていた。温かい日が増え、町中の至るところで桜が満開になっていた。修一の家の庭にある桜の木も、今が見頃だ。 「散る前に、あいつの家で花見をさせてもらうのもいいかもしれないな」  いつものように仏壇に話し終えて、立ち上がる。今日は俺が果物を用意する日だったので、買ってきたオレンジが供えてあった。  手すりを伝って立ち上がる。最近、よく出歩くようになったせいか、体が少し軽くなったような気がする。体重に明確な変化はないが、もしかしたら痩せたのかもしれないな。  安直なもので、気分まで軽くなった気がした俺は、下手な鼻歌を歌いながら居間へ戻った。今日も通販の処理をしてから、修一を待とう。  ……そういえば、花見をしたいと言いながら、あいつの家には一度も入ったことがないな。いつも来てもらってばかりだ。花見を機に、こちらからも出向けるようになればいいが……。  そんなことを考えながらパソコンを起動させ、メールの確認をする。注文がいくつか入っていたが、今日は全て日本語のものだった。すぐに返答を終えてしまい、途端に手持ち無沙汰になる。  読書でもしながら待つか、それともいっそ修一の家に行ってみるか。だが、連絡もせずに急に行くのは……、いや、あいつも急だったな。ならば俺がいきなり行っても文句は言えまい。……行くか。  そうと決まれば、後は早かった。准に外出のメールを打っておいてから、義足を引っ張り出す。いつものように装着してお茶請けのオレンジをビニール袋に入れると、足取りも軽く玄関へ向かった。  花曇りの今日は温い南風が吹いている。桜を楽しむには一番いい日かもしれないな。  裏口から出ると、どこからか桜の花びらがやってきていた。修一の家のものか、それとも余所の桜か。どちらにしろ、短い盛りを告げるそれに哀愁を禁じ得ない。  それでも俺の足取りは軽かった。今年は、その哀愁を分かち合える友がすぐ傍にいる。それがひどく、嬉しかった。  真新しい表札と不釣り合いな、古い門扉。修一が越してくるまで、この家は十年以上誰も住んでいなかった。ただ桜の木だけが毎年花を咲かせ、散るばかりだった。修一はあまり改修をしていないのか、家の外観は古ぼけたままだ。一見すると、未だに空き家のままのようにも思える。  門扉を開けると、二、三メートル先に玄関がある。左を向けばブロック塀、右を向けば桜の植わっている庭だ。少し迷ってから、俺は庭へ足を踏み入れた。  あの日の修一と同じように庭を横切り、縁側へ向かう。そこにあいつがいる保証はなかったが、半ば悪戯気分で薄暗い家の中を覗いた。  寒気が、走った。提げていたビニール袋が、手からするりと逃げていく。 「修一!」  思わず叫んだ。浮かれていた気分はどこかに吹き飛び、背筋が急激に冷えていく。俺の声に気付いたのか、家の中の修一は緩慢に顔を上げた。  長袖シャツを捲り上げた左腕に、無数の傷が走っている。右手に持ったカミソリは、血にまみれて赤黒く染まっていた。修一は俺の顔とカミソリをゆっくりと見比べて、初めて表情を変える。 「修一、どうした、修一!」  窓を叩く俺に怯えたような顔をして、修一は肯んぜぬ子どものように首を横に振る。白髪の混じった髪がばさばさと揺れて、青白い頬を打った。カミソリを投げ捨て、家の奥へと走る。すぐに、修一の姿は見えなくなった。  力任せに窓を開けようとしたが、金属の擦れる虚しい音が響くだけだった。縁側の窓全てが施錠されており、俺はもつれそうになる足で玄関へと向かった。だが、当然ながら玄関にも鍵が掛かっている。 「開けてくれ!」  玄関を叩き、叫ぶ。心の隅では、空かないことは分かっていた。それでも、俺は二度、三度と玄関を叩いた。室内からは、物音一つしない。 「修一、大丈夫か!? 頼む、返事だけでも……!」  暗い血の色が、脳裏を過ぎる。もしかしたら、あのまま修一は……。  いてもたってもいられなかった。義足が軋むのも無視して、俺はまた庭へ走った。窓という窓全てに手を掛け、入り口を探す。どんな窓でもいいんだ。中に入れれば、きっと、修一を助けられる。  祈るように引いた裏口の傍の小窓が、高い音を立てて動いた。 「……開いた!」  室内に響いた俺の声は、修一に届いたのだろうか。奥で、畳を踏む音が聞こえた気がした。  高い位置にある小窓になんとか肩を通し、四苦八苦の上でなんとか中に入れた時には、もう結構な時間が経っていた。無理をした義足が嫌な音を立てているが、今は気にしている暇はない。  板張りの廊下を走り抜け、縁側に出る。修一がいた部屋には、乾いた血がこびりついているカミソリが転がっていた。ベッドのシーツには、赤黒い血が点々と散っている。今更のように襲ってくる喪失の恐怖に、握り締めた手がじっとりと汗ばんだ。 「修一! どこにいるんだ!」  恐怖を振り切ろうと、殊更に声を張り上げた。返事は、ない。だが、代わりに階段を下りる音が遠くで聞こえた。  縁側を出て音の方へ向かう。階段はすぐに見つかった。  そして、階段を下りた修一も。 「修一……、大丈夫か?」  青い顔をした修一は、それでも微笑んで頷いた。黒い長袖シャツに包まれた左腕は、どうなっているか分からない。 「びっくりさせて、ごめん。なんともないから」 「なんともないはずがないだろう。手当はしたのか?」 「平気だよ。いつものことだから」 「手当はしたのか、と聞いているんだ」  修一は目を逸らして、小さく頷く。……分かりやすい奴だ、本当に。  俺が左腕に手を伸ばすと、修一は慌てて身を引いた。だが、真後ろにある階段に足を取られ、尻餅をつく。怯んだ隙に、俺は左腕を取った。少々乱暴になったが、仕方ない。  袖口のボタンを強引に外し、袖をたくし上げる。無数の乾いた傷が外気に晒され、修一は肩を震わせた。 「……消毒は、したよ。だから大丈夫」  力が抜けてしまった俺の手から、傷だらけの左腕が逃げ出す。右手で袖を直して、修一はゆっくり立ち上がった。 「どうして、こんな」 「う、ん……。そういう時が、ね。たまにあるんだ」 「たまにって……。そんなに何度も、あんなことをしてるのか?」  修一は白髪の混じる頭を掻いた。仕草はあの頃と変わらないのに、まるで別人と接しているような気になる。……修一、だというのに。 「大したことじゃないんだよ。ただ、発作的にそういうこと、したくなるんだ」 「……医者には掛かったのか?」 「薬をもらったよ。けど、あまり効かないんだ」 「そう、か……」  再び、修一は小さく頷いた。そして、暗い目で俺を見下ろす。 「今日は、調子が悪いみたいだから……。悪いけど、帰ってくれないかな? とてもじゃないけど、おもてなしできるとは……」 「修一、言ったはずだぞ」 「……え?」  自分でも唐突だと思ったが、俺は敢えて続けた。 「遠慮するような仲じゃないだろう。調子が悪いなら、看病ぐらいできる。なんでも言ってくれ」 「で、でも」  修一の視線が、俺の足へ向かう。 「足のことなら気にするな。激しい運動でなければ問題ない。料理だって、少しくらいはできるぞ」 「……嫌なところ、見せるかもしれないよ? さっきみたいに」 「病気なら仕方ないだろう。それに、俺の知らないところでお前が傷付いているのはもっと嫌だ」  弾かれたように、修一は顔を上げた。俺の顔をまじまじと見つめるその目には、もう暗い色はない。心なしか、顔色も少し良くなっているような……。  たっぷり間を置いてから、修一はふっと笑った。いつもの笑顔が、随分懐かしい気がしてしまう。 「すごい殺し文句だな」 「か、からかうな。他に上手い言葉が見つからないんだ」 「ま、顕らしくていいんじゃない?」  すっかり普段の調子に戻った修一は、軽く俺の肩を叩いた。 「じゃあお言葉に甘えて、お願いします」 「任せておけ」  修一の芝居がかった言い方に、こちらもわざとらしく胸を叩いて応える。そして顔を見合わせ、声を上げて笑った。  夕刻。修一の家の玄関には、鍋と俺の着替えを持った准がやって来ていた。 「わざわざすまんな」 「いえ。丈原さんのお加減はどうですか?」 「今は横になっている。なに、一晩寝れば元気になるだろう」  なんとなく修一の病気のことを話すのは憚れて、准にはただの風邪だと説明していた。修一も、その方がいいだろう。  受け取った鍋の中には粥が入っている。修一の家には米すらなかったから、粥も作れなかったのだ。 「母さんに線香を上げておいてくれ」 「はい。……じゃあ、僕はこれで」  夕日を背に、准は早々と帰っていった。……あれにも、一人で落ち着く時間がもっと必要なのかもしれないと、今更ながら思った。これは、准にとってもいいことなのかもしれない。  玄関を閉め、戸締まりをしてから、俺は鍋を手に台所へ向かった。ほとんど使った形跡のないガスコンロに鍋を置いて、火を点ける。  手持ち無沙汰になった俺は、改めて台所を見回した。テーブルの上には、酒瓶と薬しかない。冷蔵庫の中にはつまみと冷凍食品。  主食は、と隣の居間に寝ている家主に聞けば、「時々パンを食べている」と返ってきた。全く、そんな食生活をしているからあんなに細いんだ。  数分後、ある程度温まった粥を、コンロと同じく使っていなさそうな茶碗に入れて、ベッドに寝転がったまま本を読んでいる修一のところへ運んだ。 「いい匂いだね」  本を置いて起き上がった修一は、嬉しそうに目を細める。 「お粥なんて久し振りだよ」 「いつも洋食なのか?」 「ああ。ほら、実家は毎日和食だったから、パンとコーヒーに憧れてたんだ。一人暮らし始めてからはずっと洋食だよ」  そうだったのか……。高校時代、修一の弁当は旅館で出した料理の残りばかりだったが、いつも文句一つ言わずに食べていた。だから、てっきり和食が好きなのかと思っていたが……。 「このベッドもそう。働きだしてから真っ先に買ったんだ」  がっしりとした木のベッドを撫で、修一は微笑んだ。 「俺は……知らないことだらけだな」 「……顕?」  手渡した茶碗を両手に包んだまま、修一は俺を見上げた。俺はベッドの端に腰掛け、無理に笑顔を作った。 「お前の食事のことも、ベッドのことも、……病気のことも。知らないことばかりだ。……いや、それが当然か。二十七年も、離れていたんだから」  ズボンの先から覗く義足を眺めながら、俺はいつのまにか愚痴っぽく呟いていた。……情けない。 「なんでかな。お前が、あの頃のままのような気がして……。そんなはず、ないんだが」 「……そうだね。僕は確かに、変わった」  修一の声が、少し沈む。 「二十七年経ったから、さすがにね。ああ、でも」 「……でも?」  軽く、肩を叩かれる。振り向けば、修一はあの雪のような笑みを浮かべていた。 「顕は変わってないよ」 「まさか。本の好みも変わったし、内向的になったし……足もなくした」 「そういうところじゃなくて、もっと本質の話」  本質? 聞き返そうとしたが、修一は食事を始めてしまった。猫舌は直っていないらしく、しきりに息を吹きかけながら粥を口に運んでいる。  仕方なく俺も台所に戻って粥を掬い、ローテーブルを前に夕食を食べた。奇妙な沈黙が、落ちる。時折茶碗と匙が触れ合う音だけが、部屋の中に響いた。  しばらくして、修一は空になった茶碗に手を合わせた。 「ごちそうさま。美味しかったよ」 「准に伝えておく」 「お父さんを取ってごめん、とも伝えておいてよ」  冗談めかして笑うのは、いつもの修一だ。少し拍子抜けしつつも、俺は修一の食器を片付けた。ほどなく自分も食べ終え、皿洗いを始める。 「そういえば、お風呂は?」  水音の合間に、修一の声が居間から届いた。 「湯船を張るから、少し待っていろ」 「顕は? その、介助なしで入れる?」  ああ、そのことか。家の風呂なら手すりが付いているから一人で入れるが、ここでは多分無理だろう。 「今夜はシャワーで済ませるつもりだ」 「なんなら手伝うけど」 「かまわん。俺が看病に来たんだから、お前は寝ていろ」  話している間に食器を洗い終わってしまった。修一は、いつの間にか俺の後ろに来ている。 「久し振りに二人で入るのもいいかなー、とか思ったんだけど」 「そんなにここの風呂は大きいのか?」 「え? いや、……うん、無理だよねやっぱり」  少し、残念そうな顔をされてしまった。だが、修一に気を遣わせる訳にもいかない。まぁでも、そうだな。 「今度、温泉にでも行くか?」 「……温泉?」 「温泉なら、二人で入れるだろう」 「ああ、……うん。機会があったら、ね」  ……なぜか、修一はいっそう暗い顔をして笑った。なにか気に障るような言い方をしただろうか? こういう時に上手い言葉を掛けられればいいのだが、どうにも俺は口が下手でいけない。 「風呂を入れてくる」 「ああ。お願い」  逃げるように台所を出る俺に、修一はそれ以上なにも言わなかった。  修一の後にシャワーを浴びた俺が居間に戻ってくると、ベッドの横に布団が敷かれていた。自分の寝床にいた修一は、本を置いて起き上がる。 「ごめん、古い布団しかなくって」 「いや、かまわない」  修一の言葉通り、だいぶんくたびれた様子の布団だった。シャワーを浴びる前に外しておいた義足を枕元に置いていると、修一は懐かしそうに布団を眺めていた。 「上京する時に持っていった布団でね。ベッドを買ってからも、なんとなく捨てられなくて。役に立って良かったよ」  なんとも物持ちのいい奴だ。感心しながら、二十七年以上前から修一と共にいた布団に潜り込む。  少しだけ、どこかで嗅いだ匂いがした。これは……ずっと前に遊びに行ったきりの、修一の部屋のものだ。その内、この家もこんな匂いがするようになるんだろうか。  詮無いことを考えていると、次第に眠気が襲ってきた。 「少し早いが、もう寝るか?」 「……ああ、そうだね」 「辛くなったら、遠慮せずに起こしてくれ」 「うん。よろしく頼むよ、顕」  心持ち、修一の顔が強張った気がしたが……、大丈夫だろうか? 不安を覚える俺を余所に、修一は電灯を消した。  眠気と違和感と、……僅かな緊張が、途端に胸を襲う。これもまた、懐かしい感覚だった。昔、慣れない場所で眠る時は、いつもこんな気分になっていた。 「なんか、さ……」 「……どうした?」 「一人で寝るのに慣れてたから……、妙な気分だよ」  ごそり、と体勢を変える音がする。暗闇の向こうに、修一の目が見えた気がした。 「お前もか」 「なんだ、顕も? ……ああでも、そうだね。五年……だっけ」  五年。修一は、妻がいなくなってからの年月を口にする。そこに潜む暗い響きに同情以上のものを感じ、俺は先程と別の違和感を覚えた。 「まだ……愛してる?」 「なんだ、急に」 「……なんとなく。毎日、奥さんに手を合わせてるんだろう?」  修一は至極真面目だった。この手の話題にありがちな、からかう様子は全くない。……修一が真面目に聞いてくればくるほど、気恥ずかしいんだが……。 「……あれとは見合いだったが、いい夫婦になれたとは、思っている」 「誤魔化すなよ。……ほんと、羨ましいな」  結婚しなかった修一は、しみじみと呟いた。 「俺も……伝えれば良かった」 「……片想いの相手でもいたのか?」 「ああ」  ……初耳だ。こいつと恋愛の話などしたことがなかった。……嫌な感覚が、背中を這う。 「でも、逃げたんだ。……伝えるのが、恐くて。ずーっと、逃げてた」 「もしかして……、病気も、その人が関係しているのか?」  傷だらけの左腕を思い出し、俺は僅かに布団から身を乗り出した。 「うん……。忘れてた、つもりだったんだけどね。この歳になって今更思い出して、……このざまだよ。全く、自分で自分が嫌になる」 「……伝える気はないのか」 「伝えたところでただの自己満足にしかならないよ。絶対に」  どこか冷めた調子で、修一は独り言のように言った。返す言葉に窮した俺は、乗り出した体を布団の中へ戻す。 「この話は、終わりにしよう。……お互い歳なんだから、睡眠はちゃんと取らないとね」 「……俺は、伝えた方がいいと思う」  照れ隠しのような修一の言葉を無視して、俺はそう言っていた。腹の中の嫌な感覚よりも、諦めきった修一の言い方が気になったのだ。 「ずっと心に引っ掛かっているんだろう? 自分を傷付けるほど悩んでいるんだろう。なら、言ってしまった方が楽になる。たとえその結果が自己満足にしかならないとしても、そのことで苦しみ続けるよりはよっぽどいい」  自分でも、いつになく饒舌だなと思った。修一は、なにも言わない。 「俺にできることがあるかは分からないが、なんでも協力するぞ」 「……ありがとう」  ひどく、……途方もなく暗い声が、闇の向こうから聞こえた。それは間違いなく修一の声だったが、見知らぬ誰かに囁かれたような寒気すら感じる。  知らず、俺は起き上がっていた。ベッドの傍へと膝を擦りながら近付き、ぼんやりと見える修一の顔を覗き込む。 「修一……、……その、すまない。偉そうなことを、言った」  修一は首を横に振る。子どものようなその仕草は、昼に見たそれと似ていた。 「顕はなんにも悪くない。悪いのは……俺だよ」 「だが」 「伝えてみるよ、自分の気持ち。……だから、今夜はもう寝よう?」  暗がりの中で、修一は微笑んでいた。あの、雪のように消えてしまいそうな笑み。喪失の恐怖が、俺の背を再び駆け上る。  修一は目を閉じた。「おやすみ」と、か細い声が漏れる。それ以上なにも言えなくて、俺は仕方なく布団へ戻った。  目を閉じても、睡魔はやってこない。自然、考えるのは修一のことだった。修一が自らを傷付けるほど、想い続けた誰か。一体、どんな女性なのか……、想像もつかない。  幼馴染みの誰かだろうか? 中学、高校の同級生? それとも、上京した後で知り合った人だろうか。だとしたら俺の出る幕はないな……。  伝えてみる、とは言っていたが、どうするつもりなんだろう。もっとも、俺が言わせたようなものだから、本当のところはその気がないのかもしれないが……。  考えれば考えるほど睡魔は遠ざかる。寝返りを打つと、衣擦れの音がひどく響いた気がした。修一はもう眠ったのか、細い寝息が微かに聞こえる。  息を吐いてから、俺は仰向けになった。闇に慣れた視界には、見知らぬ天井が映っている。  思えば、他人の家に泊まるなど久し振りだ。膝下を失ってからというもの、あまり外出をしなかったからな。修一がいなければ誰かの家に泊まるどころか、買い物だって……。  修一のおかげだな。俺は、その恩を返さなくてはならない。誰よりも、修一のために。  ああ、また……、あの日の夢だ。高校の卒業式。修一と、最後に会ったあの日の。  話すのはいつものように、本のことばかりだ。修一は相槌を打ちながら、窓際で笑っている。窓に映る修一の顔は、雪のように白く、今にも溶けてしまいそうなほど儚く……。  ……いや、違う。窓の向こうは吹雪ではない。あれは、……桜? 花吹雪だ。ここは高校ではない。修一の家の居間だった。あの日のままの修一は、ベッドに腰掛けて庭の桜を眺めている。俺は布団に横になったまま、指先一つ動かせない。 「願わくは……」  細い、声だった。立ち上がった修一は、俺を見下ろして微笑む。消えてしまいそうな、笑みだった。 「花の下にぞ春死なん」  俺の枕元に座って、修一は囁きを続ける。 「その如月の、望月の頃」  傷だらけの左手が、俺の頬を撫でた。こぼれ落ちた涙が、俺の額を濡らす。……夢、なのか、これは?  修一は俺に頬を擦り寄せた。頬骨が、肌を通して触れ合う。 「顕……」  高校生の修一は、今のあいつの声で俺を呼ぶ。 「ごめん、ね」  その言葉に込められた想いを問う暇もなく、修一の唇は俺のそれに重なっていた。  声が、出ない。夢だからか、驚きはしても嫌悪感はなかった。ただ、すぐ傍にある修一の顔を見つめることしかできない。  どれだけの時間が、過ぎたのか。離れていった修一の顔は、今のあいつに戻っていた。花吹雪を背に、微笑んでいる。 「さよなら」  気味が悪いほど晴れ晴れとした顔で、修一は別れを告げた。音もなく立ち上がり、躊躇うことなく窓を開ける。裸足のまま庭に下りた修一は、引き寄せられるように桜の木へと歩き出した。  ……駄目だ。行くな! 心の叫びは、声にならない。行かせてはいけないんだ、あいつを。行かせたら……、もう帰ってこない。絶対に、帰ってこない。分かっているのに、俺はなにもできなかった。  修一は桜の木の根本まで辿り着き、天を仰いだ。その目の前に、輪を作った荒縄が降りてくる。全身を、寒気が襲った。  ……修一、頼む、止めてくれ……!  声にならない祈りは、修一には届かない。筋張った手が、荒縄に掛った。細い首が、ゆっくりと輪をくぐる。  ……修一……! 「逝くな!」  俺は叫びながら、布団から飛び起きていた。 「……あき、ら?」  庭に降りていた修一が、目を丸くして俺の方へ振り返る。その手には、昨日俺が落としたままになっていたオレンジの袋が提げられている。 「……良かった、夢か」 「どうしたんだ? うなされてたみたいだけど」 「ああ、……その」  昨日の今日で、お前が死にかけた夢を見た、というのも気が引けて、俺は言葉を探した。その間に、修一は居間へ戻ってくる。窓の外はまだ少し暗く、夜が明けて間もないようだった。 「……胸に手を置くと悪夢を見る、と言うだろう? あれだ。夢の内容はあまり覚えてない」 「いくな、って言ってたけど、予知夢でも見た?」  慌てて首を横に振ると、修一は袋をベッドの上に置いて苦笑した。 「嘘が吐けないよね、顕は」  俺の枕元に膝を突いた修一は、真っ直ぐに俺を見下ろしていた。揺るぎない視線が、俺を捉えて離さない。 「やっぱり伝えなきゃ、駄目か」 「……どういう、意味だ」  まさかほんとに……、死ぬつもりだったのか? 明確な言葉を口にするのが恐い。俺はいつの間に、こんな臆病者になったんだろう?  修一は笑う。あの、消えてしまいそうな顔で。 「二十七年、我慢してたのに。……たったの一ヶ月で、耐えられなくなるなんて」 「修、一」 「どうしてもっと幸せになってくれなかったんだ? 僕なんか入り込む隙もないくらい平穏な家庭を作ってくれてると思ってたのに……」  なに、を、言っている? 修一が、なにを言っているのか……分からない。違う、……追いつかないんだ、頭が。笑いながら俺を責める修一の目が、痛い。 「どうしてそんな簡単に僕を許すんだ? 二十七年も音信不通で、奥さんの葬式にも来ない、年賀状一枚出さない幼馴染みだよ? 今更、どの面下げて会いに来たんだって、怒ってくれれば良かったのに」  修一の目から光が失われていく。伸ばされた左手の手首には、真新しい傷が付いていた。まさか、また。 「どうして僕なんかの心配をするんだ? 隠し事ばかり、嘘ばかりなのは顕も気付いてるだろ? こんな奴、いつ死んだっていいじゃな……!」  拳に、鈍い感触が走る。  ……殴っていた。気が付いたら、修一を、……この手で思い切り殴っていた。呆気にとられた修一は、目を見開いて俺を見上げている。  俺は……、なんて、ことを。 「……すまない、修一」 「謝らないでよ。……惨めに、なるから」  その目に残った微かな光は、揺れていた。右に左に、ゆらゆらと揺れてから、そっと瞼が降りる。  こぼれ落ちた涙は、修一の赤くなった頬を静かに伝っていった。 「もう分かっただろう……? 顕は、顕の日常に、戻ってくれよ」 「嫌だ……!」  殴ったのは俺のはずなのに、なぜこんなにも痛い? 「二度と君の前には現れないから……」 「修一!」  修一はゆらりと立ち上がり、そのまま庭へ降りた。 「待て、修一……!」  細い背中は振り返らなかった。振り返ったとしても、俺になにが言えただろう。上着も着ないまま庭を出て行く修一を、俺はただ見送ることしかできなかった。  修一の涙が瞼の裏に焼き付いて、どうしようもなく俺を苛んでも、今の俺にできることはなにもなかった。  昼を過ぎてようやく家に帰った俺を見るなり、准は「どうしたんですか」と珍しく声を上げた。 「お父さん、丈原さんとなにか……」 「……すまん。今はなにも、言えない」  自分でも整理が付かないことばかりで、俺はそれだけ言って仏間へ引きこもった。  窓ガラスの向こうには、つぼみを付けた桜の枝が覗いている。修一は宣言通り、いくら待っても隣家に帰って来なかった。不気味なほどの静寂が隣家を包み、全てを拒絶するかのように沈黙を守っている。  音のない世界で、ただ俺の頭の中に修一の言葉が繰り返し繰り返し流れていた。その意味が分かっていても、感情が追いつかない。 「……どうすればよかったんだ。なにが間違っていたんだ……」  いつから俺達はすれ違っていた? いつから修一は苦しんでいた? いつから俺は、あいつを苦しめていた? 答えが出ないままの自問がいくつも浮かんでは消える。修一といた十八年間が、修一のいなかった二十七年間が、走馬燈のように流れていく。  仏壇に飾られた妻の遺影は、なにも語らずただ俺に笑いかけていた。俺は確かに妻を愛していた。今もそれは変わらない。  変わらないはずだというのに、この罪悪感はなんだ? 修一の雪のような笑みが、妻の遺影に重なる。冷たくなった妻の白い顔が、卒業式の日、窓に映し出された修一の青白い顔と重なり合う。 「……違う。修一は、生きている」  そうだ、あいつは生きている。生きて、……どこかで、苦しんでいる。  まだなにも終わっていない。いや、もしかしたら始まったばかりなのかもしれない。  俺は立ち上がった。大雑把に付けたままだった義足を、しっかりと嵌め直す。  行く宛など無い。だが、行かねばならない。 「行ってくるよ」  返事のない問い掛けに縋る時は、既に終わっていた。  本町の旅館〈たけはら〉に顔を出した俺を見て、修一の兄は瞠目した。 「どうしたんだ? 准くんは?」 「すみません、急ぎで。修一はこちらに来ていませんか?」 「……どうして修一が帰ってきたことを?」  修一の兄は、訝しげに俺を見下ろした。だが、細かいことに構っていられない。 「二、三週間前から、うちの隣に住んでいましたが、今日は帰ってきていないようなんです」 「二、三週間前?! 修一が顔を出したのはついさっきだぞ」  目を剥かんばかりの彼の言葉も、今の俺には些事だった。掴みかからん勢いで、修一の兄に詰め寄る。 「修一はここへ来たんですね?! どこへ行くか言っていませんでしたか?!」 「久し振りに墓参りに行くと……。顕くん、あいつはいったい、なにをやっているんだ?」 「詳しいことは俺にも……。すみません、落ち着いたら必ず連れてきますから」  それだけ言って、俺は踵を返した。  丈原家の墓地は、妻の眠る霊園と同じ場所にある。薄ら寒さに急き立てられるように歩き出した俺の頬に、冷たいものが当たった。  降り出した雪は途端に視界を曇らせる。滑りそうな義足を懸命に動かしても、もどかしいほど歩みは遅かった。 「……お父さん!」  突然、背後から聞き慣れた声が響く。振り向いた先では、運転席の窓から息子が顔を出していた。 「准! お前、店は?」 「いいんです。さ、乗ってください」 「しかし……」 「丈原さんを探しているんじゃないですか?」  ぴたりと言い当てられて言葉を失った俺に、准は妻譲りの柔らかな笑みを浮かべた。 「僕はあの人もお父さんも心配なんです。さぁ、早く」 「……すまん」  言葉に甘えて助手席に乗り込んだ俺がシートベルトを着けると、准は「どこへ行けばいいですか」と尋ねてきた。 「墓地へ行ってくれ。……できるだけ、早く」  小さく頷いた准は、いつもより早い速度で走り出した。それでもなお、俺の焦燥はなくならない。むしろ、強くなっていく。 「……頼む」  間に合ってくれ。自然と漏れ掛けた自分の言葉に愕然とする。  修一がなにをしようとしているのか、俺は薄々、分かり始めていた。  雪の降りしきる中に、灰色の墓石が浮かんでいる。今の俺には、見慣れた霊園がそんな風に見えた。  丈原家の墓は霊園の入り口付近にあり、真新しい線香が立てられていた。それも雪に火を消され、冷たく横たわっている。 「修一! いるのか!」 「丈原さん!」  俺と准は手分けをして、霊園の中で声を上げながら修一を捜した。だが、強くなるばかりの雪と風に掻き消され、さしたる効果があるとは思えない。 「修一!」  それでも声を上げ続けた。滑りそうになる足を懸命に抑え、何度か段差に足を取られながらも俺は歩き続ける。自然、俺は妻の墓参りへ行く時の道筋を辿っていた。 「丈原さん!」  遠くで准の声が聞こえる。墓石と卒塔婆が吹雪の中で不気味に佇んでいる。  上着も着ないで出て行った修一は、さぞ寒いだろう。今更になって、コートの一つも持たずに出てきたことを悔いた。  その時、義足が僅かな段差に取られ、俺の体が傾ぐ。 「……しまっ……!」  ご、と派手な音がしてから、強い痛みが全身を襲う。咄嗟に体を捻ったものの、地面へ思い切り打ち付けてしまった。一瞬、視界が真っ暗になる。  視覚が遮断された俺の耳に、ずっと前に聞き慣れていた呼吸音が届いた。ひゅ、ひゅ、と細い息が漏れるようなそれは、すぐ近くで断続的に続いている。 「……修一!」  ようやく……ようやく見つけた……!  這うように修一の側へと向かう。紙のように白い顔をした修一はしかし、虚ろな目で細い息を続けるばかりだった。 「修一、しっかりしろ! 修一!」  肩を抱いても、頬を叩いても、修一は反応しなかった。 「お父さん!」 「准、救急車を! 喘息の発作だ、意識がない!」  准が電話をしている声も、吹雪の音も、もう聞こえなかった。ただ修一の喘鳴だけが耳の奥を木霊する。 「修一、頼む……! しっかりしろ!」  俺は知らぬ間に修一を抱きしめていた。 「修一……!」  失いたくない。俺の頭の中にあるのは、ただそれだけだった。  今日も俺は、修一の病室へ行く。 「桜が散ってしまったよ」  声を掛けても、答えはない。だが、これが今の俺の日課になってしまった。 「あの日が、今年最後の雪だったな」  虚ろな瞳が虚空を映している。喘息の大発作から来る酸素欠乏は、修一の脳に大きなダメージを与えたそうだ。意識が戻る確率は、奇跡のようなものだと医者が言っていた。 「……書きかけの原稿、持ってきたぞ。編集者が……読者だってきっと、待ってる」  隣家の二階には、いくつもの錆び付いたカミソリの他に、古式ゆかしい原稿用紙と万年筆が転がっていた。修一の容態をどこからか聞きつけた編集者は、俺に彼の筆名を教えてくれた。 「どうして言ってくれなかったんだ?」  〈竹原(たけはら)晃(こう)〉。決して近影を撮らせなかったというその作家は、自分の筆名についてこう語っていたという。  ――初恋の人の名前を、借りたんだ――と。  俺は、〈花のもとにて〉と題された原稿に書かれたその筆名を、指先でなぞった。  もう枯れ果てたと思っていた涙が一粒だけ落ちて、インクを滲ませる。 「……どうして言ってくれなかったんだ……」  いらえのない問いかけは、雪のように白い肌へ溶けて、消えていくだけだった。       
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