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10
その日の夜、寝室で二人並んで暗い天井を見上げながら、何となく静かな時間が流れていた。
ピリついてはいないけど、少し緊張していたのは何故だろう。
「私、変わったと思う?」
隣で、絵美は言った。きっとさっきの想い出話のときに、そんなふうに感じさせたのだと思う。
どんな答えが良いだろうかと、少しだけ思案に時間を費やした後で、どうせ考えても答えは見えないから、考えずに話そうと決めた。
「変わったところと、変わってないところがあるかな」
「そうだよね。でも、仕方ないんだよ。夫がいて、子どもがいて、守るものがあるんだもん。昔みたいに、笑ってるだけじゃダメなんだよ」
「……分かってる」
「ウソ、分かってないよ。私はね、ヒデが外で働いてるから、これとこれは自分でやらなきゃ、あとあれも、これもって思って、ヒデが無関心でも、我慢してるの」
青野は、驚いていた。話の内容以前に、こんなふうにストレートに不満を語られたこと自体、あまり記憶になかったからだ。
バレないように絵美の横顔を見る。窓の外の街灯か、月の光か、うっすらと照らし出された彼女の目には、涙が見えた気がした。
こんなに笑顔が似合う人に涙を流させるなんて、どれほど重い罪なのだろう。
「恩なんて着せるつもりはないよ。でも、我慢してることだけは分かってほしい。それって、贅沢かな」
「……ゴメン。贅沢なんかじゃない」
それから絵美は、宏央の受験のことも話してくれた。
本人がしたくないなら、無理にさせるのはやめようね。彼女はそう言って、だけど大事なことだから、父と息子でもちゃんと話をしてほしい。そんな言葉も付け加えた。
青野は、黙って頷いた。
もしも絵美が変わったと思うなら、変えたのは自分自身かもしれない。変わる必要があったとしても、ちゃんと隣で寄り添ってきただろうか。
そうして、自分自身のことも。
無自覚のうちに、変わってしまったところはないか。
「そうだ、さっきの懐かしい想い出話で、急にやりたくなった。起きろっ!」
絵美はガバっと起き上がり、電気をつけると、青野の手を引っ張って立ち上がらせた。
「ちょ、ちょっと、何っ」
「ペアストレーッチ!」
まるで必殺技のように叫ぶと、青野をくるっと反転させ、背中を合わせた。まずは絵美が沈み込む。十数年ぶりの彼女の背中、その体温を感じたかったけれど、それよりも腰が痛くて青野は「うっ」と声を上げた。
「老いたなあ。次はヒデ」
「よおし」
気合いを入れて沈み込もうと思ったところで、部屋のドアががちゃっと開いた。
「何やってるの。うるさいな」
不機嫌そうな宏央がそこに立っている。
本当にストレッチなので気まずく感じる必要はないのに、「あ、あのねコレはっ」などと、二人は慌てた。
何の記念日でもないけど、この日が大切な1日になったのは、言うまでもない。窓の外では雪が降り始めた、それは冬の日のことだった。
翌朝、ドアを開けると、外は一面の銀世界だった。今日はきっと、雪かきでしばらく仕事にならないだろう。
絵美は出がけの青野に、「畑野さんの足を引っ張っちゃダメだよ」と言った。
なんだ朝から、やる気をくじくようなこと言いやがって。青野はそう思ったが、言わなかった。
「秋田さん、ヒデが会社を辞めたとき、すごく寂しそうだった」
「えっ」
そんな認識はまるでなかった。だけどそうか、もし彼がそんなふうに思ってくれてたとして、でもあの人は、決して口には出さないだろう。
それより、絵美はどうしてそのことを、今まで言わなかったのか。
青野は、考えた。いつか青野の心に存在した、ヒミツを封じ込める巾着袋のようなものが、実は彼女の心の中にもあって。
そうして、秋田が感じた寂しさを、伝えないと彼女が決めたのだとしたら――。そこまで推理すると、青野は目が覚めるような思いを感じた。もっと言えば、もう一度恋をしたような気分だった。
「畑野さん、これからすごく大変になるんでしょう。3月31日まで、ヒデも頑張ってね」
その言葉で、青野はだんだんと力が湧いて来た。
さて、現実はそううまくはいかない。このあと、青野は畑野係長に大きな迷惑をかけることになるのだが、それはまた別の話――。
(おわり)
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