1/1
75人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ

 このことはヒミツでお願いします――。  その言葉は彼の口から発せられたものだが、実際のところ、彼女はそんなふうに持って回った考え方をする人ではなく、ウラオモテも隠し事もなくて、端的に言えばシンプル(、、、、)だった。  だから、それを聞いた彼女が絵に描いたようなキョトン顔を見せたことも、当然の帰結だったわけである。  高校の頃、そんな人を好きになった。  最初はただのクラスメートで、好きになったのにははっきりとした理由があった。  ある冬の日だったと思う。2階の教室の窓からは、寒々しい枝ぶりを北風にさらす樹々が見えた。窓際の席に座る青野秀敏(あおのひでとし)は、ぼんやりとそれを眺めながら、苦手な数Ⅱの授業を聞き流していた。  授業もあと5分で終わるという頃に、斜め後ろに座る女子が「あっ、あっ、わあ!」と叫んだ。 「どしたー、高峰。うるさいぞ」 「あの、いえすみません、大丈夫です」 「何が大丈夫なんだ」  教師が言うと、教室内に小さな笑いが漏れた。そうして、再び授業に戻る。腰を折られた教師は、「というわけでー」と締めに入った。 「青野くん、青野くん」  その高峰が後ろからシャーペンで脇腹を突っついてきたので、青野は「ひっ」と情けない声を出した。 「見てよ、これ」 「な、なんだよ」 「500円玉」  彼女は嬉しそうな表情で、1枚のコインをつまんで見せる。 「机の奥から出て来たの」 「えっ、なんで?」 「私がずっと前に入れてて、そのまま忘れてたヤツ」  何で500円玉を直に机に入れてたんだ!?とは聞かず、「そうなんだ」と答えた。それ以外の答えが思いつかなかった。 「得したよ~。やったね」 「得したの? だってもともと自分のお金でしょ?」 「そうだよ。でも見つけたんだから得じゃん」 「いやいや、百歩譲ってプラマイゼロでしょ。むしろ見つけられなかったら損してたんだから、そのリスクのほうがあったわけで」 「もう! いいの、私が得したって思ってるんだからっ!」  急に大きな声で遮られ、ヤバ、怒らせたかなと思ったけど、彼女はやっぱりニコニコ笑っていた。  気づくと授業は終わっていて、立ち上がる者や雑談する者たちで、教室内がざわざわしている。二人の会話なんて誰も聞いていないだろう。それは分かっていたけど、何だかちょっと気恥ずかしくなって、青野は席を立った。  高峰も席を立って、「高めのパン買って来よ~」と言いながら去って行った。高めのパンって何だ?と思いながら、それを見送る。何か声をかけたかったけど、うまく言葉が見つからない。  何故だか青野は、このときのことを後々までよく覚えていて、彼女を意識し始めた最初のきっかけだったと、自己分析している。  だけれども、そんなことはヒミツだ。まかり間違って彼女に「好きだ」なんて言おうものなら、「えっ青野くん私のことが好きなの!?」などと大きな声で聞き返されて、道行く人みんなに恋の行方を知られると思った。  この特別な一日のことは、胸の内側にしまって鍵をかける。  寒い冬の日の、小さな決意であった。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!