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青野は高校を卒業すると、県外にある旅行会社に就職した。実家を出たのも初めてで、しばらくは一人暮らしにもてんてこ舞いした。
当初は観光バス事業部の、主に運行管理の部署に配属された。業務の一部に交通規制やルートの確認も含まれるので、知り合いにはカッコつけて空港の管制官みたいなものだと説明していたが、どちらかというと雑務に近かったと思う。
仕事そのものは嫌いではなかったが、自分がバスを運転するわけでもないので大した刺激もなく、自宅と会社との往復といった状況であった。
さて、入社当時から良くしてくれた先輩の一人に、秋田という男がいる。彼は車両整備職で、技術者だった。青野より十近く年かさだったと思う。
大柄な体躯を隠すような猫背の彼は、いつだってぶっきらぼうで無口だったが、どこか人を寄せ付ける魅力があるようで、まわりにはいつも誰かしら取り巻きがいた。青野自身も、仕事の上で頼りにするだけでなく、何となく彼と行動をともにしていた時期がある。
「秋田さん、昼メシ行きましょう。新しい中華屋ができたんですよ、激安の」
「安けりゃいいってもんじゃない。味と素材が重要だ」
「そんな高級な舌じゃないでしょ、さあ行きましょう」
そうやって彼を店に引きずって行っては、大して盛り上がるわけでもない会話を交わし、食事をする。だけど、それがけっこう楽しいひと時になるのだった。
入社後2年目の冬のある日、退社時刻を過ぎるや否や、秋田と二人で飲みに出た。珍しく、秋田から誘われたのだ。
店は秋田の指定だった。ローストビーフの専門店で、白を基調にした清潔感溢れる店内は、いかにも女性受けしそうな装飾とインテリアでいっぱいだった。「なんでこんな店に誘うんだ?」と青野は訝しんだ。
「俺の友達の店なんだ」
「えっ、秋田さんの?」
「高校時代、同じ柔道部だった。一緒に汗を流した仲だ」
「すごいですね、柔道家から、今はシェフに転身ですか」
秋田は小さく頷き、「お前に食わせたくてな」と言った。この後の展開を後から考えると、本当に誰かの作為だったんじゃないかと思うのだが、もちろん、秋田は何も知らなかった。
女性の店員が「ご注文はお決まりですか」と言いながらやってくる。彼女の顔を見て、青野は「あっ」と声を上げた。
高峰だ。
この店のユニフォームなのか、スタンドカラーのシャツに黒のパンツとエプロン、それに学生時代には見慣れないハンチング帽なんぞを被っていたが、何を着ていたってすぐにわかる。
高峰だ!
この展開に、運命を感じないヤツはいないだろう。彼女も青野の顔を見てすぐにわかったらしく、「あれ、青野くんじゃんっ!」と嬉しそうに言った。
「この店で働いてるの!?」
「そうそう、卒業してからずっとバイトしてるんだ。わ~びっくりした、青野くんも安座富町を出たんだね。私と一緒だ」
そうか、高峰も実家を出たのか。
でも実家を出てバイト? なんでこの店なんだろう。バイト以外では何をしてるのかな。誰か付き合ってる人は――?
多分3秒にも満たない短い時間に、そんな疑問がたくさん脳裏をかけめぐった。聞きたいし、話したい。なんせ高校時代は偶然に頼るしか、彼女と会話する機会は得られなかった。
今はきっと、もう少し、違う。社会に出て、仕事も人付き合いも経験を重ねて、あの頃よりは堂々と、胸を張って、彼女と話せるんじゃないか。そんなふうに思った。
「仕事が終わった後でいいから、ちょっとだけ、話せる?」
「いいよ~。連絡先も交換しよう」
これは夢なのか、と思った。会いたいなぁと夢想ばかりしていた人と再会し、こんなにトントン拍子で仲良くなれるなんて!
しかし、何か忘れてる気が…と思った直後。
二人の間で、秋田が憮然とした表情で座っていることに気がついた。ヤバ…と思い、慌てて秋田がオススメするローストビーフ御膳を頼んだ。でもそんなことはもうどうでも良くなっていて、秋田の言葉も肉の味も、頭と体を素通りしていくばかりだった。
この出会いから、幸せへの一里塚を駆け上がっていくことになる。青野は今、その時期のことをそう分析していた。
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