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 記憶を現実に引き戻す。  仕事始めの前日、1月4日の昼になってようやく、青野はいちばん憂鬱な案件について思考を巡らせた。それまでは考えないようにしていたことだが、ここに至り、考えないわけにいかなくなった。  昨年の末、年末調整で、ミスをしたのだ。  そもそも毎年1月に提出する扶養控除申告書に、去年は絵美のことを書き忘れていた。それだけならまだしも、12月の年末調整の際にもそれに気づかず、そのまま提出してしまった。絵美は専業主婦なので、源泉控除対象配偶者になる。 「ヒデ自身が人事課にいるのに、どうしてそんなミスするの!」  それが発覚したとき、絵美はすごく怒った。考えてみれば当然だ。本当は配偶者控除を受けられるところ、それを受けずに12月のボーナスも給与も受け取ってしまったのだから。保険料控除など、たかが知れている。 「ご、ごめん。他の人の書類ばかりチェックしてて、自分のはまったく見てなかった」 「どうするの、戻って来るお金もあったんでしょ!?」  給与明細がぐちゃぐちゃになるほど握り締め、彼女は怒った。  怒られたことだけでなく、ミス自体にも青野はショックを受けていた。こんなレベルの低いミスをするなんて…。自分の仕事の甘さが露わになったように感じて、もともと大して持ってなかった自信も、砕け散った気がした。 「確定申告すれば戻るけど、ちょっと先になるよ、2月か3月か…」  そう言うと、絵美はむすっと黙った。もう会話してくれる気もないらしい。それで青野は慌てて、他に手はないかなと思って探した。  年末の忙しいときに、係長にも相談した。畑野伊織(はたのいおり)はまだ二十代で、年下の上司だ。だがおそろしく仕事はできるし、意識もメチャ高い人なので、相談自体がけっこう勇気の要ることだった。  デスクに座って端末を見ながら青野の話を聞いていた彼女は、案の定、怒りを滲ませた。 「あのね青野くん、他の職員のことじゃなく、自分のことで相談って、なんでそんな情けないことできるの」  いきなり強烈すぎる。  そして言っていることは、絵美と同じだ。 「す、すみません…。自分でも調べてみて、再年末調整というのができると思うので、それをしたいのですが」 「あれは特例なんだよ。それに1月中に市町村や税務署に書類を出さなきゃいけないんだから、今さら内容の変更なんて、大変になる」 「他の人には迷惑かけないので、ダメでしょうか」  食い下がると、畑野は「まったくもう」と小さく呟いた後で、了承してくれた。だから年が明けたら―― これはあくまで自分自身の給与のためだが、再年末調整の処理をしておかなければならない。  そうして、仕事始めの日になった。青野は朝イチで上司の姿を見つけると、年始の挨拶をした。 「明けましておめでとうございます、青野くん。今年もよろしくね」  畑野はもう年末調整のことは記憶から消えているようで、青野は安心した。彼女にとっては、些細すぎることなんだろう。中途採用の青野にとって、彼女の仕事ぶりはいつだって尊敬の対象で、目標でもあった。  要するに、カッコいいのだ。  4月に青野が配置換えになる件は、当然ながら畑野は知っているはずだが、どちらも言葉には出さなかった。まだ内々示の段階なので、オープンには話さないと判断しているのか、あるいはまだ青野の耳に入っていないと思っているのかもしれない。    さて、忘れないうちに。  再年末調整の処理自体は、数分で終わる。給与計算システムに登録するだけだ。あとは1月末に病院から税務署へ納付する額の調整と、報告書類の修正で済むので、さしたる手間はかからない。  だが同じ人事課の係員で、自分よりもずっと若い相本(あいもと)という男子に「気を付けましょう、青野さん」と言われたときに、まあまあ凹んだ。  来年は気を付けよう、と思った。  やがて1月も中旬を過ぎると、給与日を迎えた。畑野や相本と一緒に給与算定の多忙な日を乗り越え、何とか無事に全職員に支給する。  支給する側でありながら、当然のことだが、青野はもらう側にも属する。  自分で自分に「お疲れ様」と言って給与明細を渡した。
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