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 人事課の恒例だが、給与支給日は、みんな早く帰る。青野も18時過ぎには、席を立っていた。  コートを着ていてもとても冷え込む日で、深夜には雪になるとの予報も出ていた。青野は縮こまりながら帰路を急いだ。  給与明細を持って帰宅すると、キッチンから絵美が「お帰り~」と言うのが聞こえた。宏央もドタドタと走ってきて、「お帰りなさあい」と言ってくれた。給与日は、小遣い日でもある。単純に、それが嬉しいのだろう。 「絵美、ちゃんと年末調整されたよ」  妻の顔を見ると、早速その報告をした。 「良かった。今日ね、先に銀行でおろして来たんだけど、手取り額がかなり多いんだよ、びっくりした」 「多分それは、年末調整で戻って来たからじゃないかな」 「そう思ったけど、でもさ、それって毎年同じじゃん」  コートを脱ぎ、ネクタイを外しながら妻の話を聞いていて、青野は「ああそっか」と思った。 「今回はほら、俺が去年の1月の段階から間違えてたから。絵美を源泉控除対象に入れてなかったでしょ」 「どういうこと?」 「要するに、妻は扶養対象じゃないって登録しちゃってたから、毎月、多めに源泉徴収されてたんだよ。それが一気に戻って来たんだ」 「そんなことがあるんだ!」 「でも別に、得したわけじゃないんだよ。多く取られすぎてただけ」  そう説明したが、絵美の顔は、やはり少し嬉しそうである。それから彼女は、「得した気分だな」と言った。 「年間で見たら、得はしてないんだけどね、そう感じるだけで」 「もうっ! 私が得したって感じてるんだから、得したんだよっ」  そう怒鳴って妻は、青野の肩をばんっと叩いた。あれ、そういえばこんなことをつい最近、遠い記憶の中から引っ張り出したような気がする。そうして3秒もしないうちに、青野は思い当たった。 「500円玉のときとおんなじだね、変わってないところもあるんだなあ」  青野が言うと、絵美はきょとんとした表情で、「500円玉って何だっけ?」と言った。覚えていないのだ。あんなに嬉しそうだったくせに。そのおかげで、高めのパンを買えたくせに。  だけど青野にとって、あの500円玉の想い出は、大切なものだった。この人を好きかもしれない、と思った最初のきっかけだったから。 「覚えてないの?」 「わかんない」 「高校の頃さあ、授業中に、俺の脇腹をつっついて…」  せっかくだから話してやろうと思った。絶対に思い出させてやる、なんて妙な情熱が、青野の心の中で燃えた。  その夜は久々に3人で食卓を囲んだ。  何となく柔らかい空気を感じるのは、お金が戻って来たからだと思う。給与日だからって、いつも同じというわけじゃない。  テーブルには、大好きな生姜焼きと、サバの味噌煮のダブル主演が並んでいる。たぶん、夫を労ってくれたのだ。 「超おいしそう」  青野が言うと、絵美は「おいしいよ」と答えた。それからあれこれ話しながら、食事は進んだ。 「6年生になったら、お小遣いの額は上がるのだろうか」  タイミングを見計らったように、宏央が呟いた。半分ふざけながら、しかしけっこう真剣と思われる眼差しで。 「最上級生ともなれば、責任も重い。上がるに違いないだろう」 「なーにが、違いない、だよ。パパが上がらないのに上がるもんか」 「あれ、私、上げないなんて言ったっけ」  絵美が言うと、青野も宏央も、同時に彼女を見た。そうして、ふふ、と不敵な笑みを返される。  少しだけ、青野は期待した。
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