失ったなにか

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失ったなにか

 私は昼食を半分ほど残して、病院の庭を散歩していた。  桜の木の下にあるベンチに腰を下ろした。  そしてずっと握りしめていたペンダントをもう一度手のひらに乗せた。  留め金を外し、写真の彼を見つめる。  私はこの人のことを知っている?  わからない。  思い出そうとしても、思い出せない。  思い出そうとすると、息が苦しくなって、まるで私が思い出そうとするのを拒んでいるみたい。  彼の写真を見るたびに、どうしようもない喪失感に苛まれてしまう。  私は肌寒くなって、病室に戻ることにした。 「日和さん、お客様がお待ちですよ」  部屋の前の廊下には、さっきの白衣姿の女性が微笑んでいた。 「そうですか…誰ですか?」  私は困惑していた。  …何も覚えていない。多分、倒れたショックで記憶が抜けているんだろう。  お見舞いに来てくれる人なんていたっけ。  私は部屋のドアを開けた。  そこにいたのは、知らない夫婦だった。  知らないけれど、どこか懐かしいような気もする。  もしかしたら、どこかで会ったのかもしれない。  私はひとまず、パイプ椅子に腰を下ろした。 「日和ちゃん。おばちゃんのこと、覚えてる?」  私は顔を顰めて申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら首を横に振った。 「すみません。思い出せません。どこかでお会いしましたっけ?」  すると奥さんは少し寂しげに笑って言った。 「覚えてないならいいの。体調もあまり良くはないでしょう。気にしないで…ただ」 「ただ?」  奥さんはひだまりのような微笑みを浮かべて言った。 「何かあった時には、おじちゃんもおばちゃんも日和ちゃんの味方だから。頑張ってね!」    知らない人のはずなのに。  こんなに懐かしさが込み上げてくるのは。  こんなにぬくもりが伝わってくるのは。  なぜだろう。  こんなにも暖かくて。  涙が、頬を伝う。  暖かい温もりに溢れた涙。  思い出せない悲しみに悶えた涙。  ぐちゃぐちゃの感情のまま、私は子供みたいに泣きじゃくる。 「…ううっ…うう…」  嗚咽を漏らす私を、奥さんは優しく抱きしめてくれた。  私は涙が引いた後、もう一度ペンダントの中の色褪せた写真の彼を見つめた。  …私は確かに、あなたを知っている…。  私はそんな口にしない思いをそっと胸の奥にしまった。  
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