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「やっぱり、笠原君は私の恩人ですね」
「恩人? いや、俺は何も」
恩人なんて言われて驚いた俺が否定すると、彼女は俺をまっすぐ見つめた。
「何度も助けてくれた。痴漢のときも。熱中症のときも。それに何より、剣道をくれた。……私、剣道をしてるときは、剣道のことだけになれるんです。すごく楽しい」
彼女は笑ってそう言ってから、ふっと表情を失くした。
「笠原君が言ったこと、その通りだと思う。私、毎日何でもかんでも決まってないと不安で、ちっとも楽しめてなかった気がします。つまらない人間だったと思います」
俺は彼女の言葉を聞いて、
「今はどうなの?」
と尋ねた。
「まだ不安に思うことも多いけれど、決められた通りするのは窮屈だってこともわかった。私は自分で自分をがんじがらめにしていたのかもしれません」
彼女は何か悩んでいるのだろうことが俺にもわかった。
けれど、俺は彼女のそんな不安定でも必死に生きているところにも惹かれている。
「俺は俺の考え方しかできないし、それが正解とも限らない。だから、君は君のやり方で無理することはないんじゃない? 君が今より楽に過ごせればいいなと俺は思う」
「ありがとう」
彼女は花が開くように笑った。あたりに春が訪れる。
「それでさ、今更なんだけど、名前を聞いてもいい?」
「あっ。はい。朝川瑠衣です」
「朝川さん、ね。その中途半端な敬語もやめない? 同い年なんだし」
「え? でも、私にとっては笠原君て、手が届かないほど遠い存在で……」
朝川さんは困ったように言いわけをした。
「逆に寂しいから、それ」
「わ、わかった」
俺は大きく伸びをした。放り出したままの鞄と包み紙を拾う。
「それから、電車は前の時間に戻してくれると助かるな。俺、朝弱いから」
「そうなの? うん。いいよ」
「それから」
「ま、まだあるの?」
朝川さんの顔にやや緊張が浮かんでいる。俺はその朝川さん以上に緊張して言葉にする。
「よかったら、俺と付き合わない? 一緒に朝川さんの楽しいこと見つけていきたい。それから、朝川さんの好きなものも教えてほしい。わからなかったから、色々入れた。今日ホワイトデーだろ?」
朝川さんに不器用に包み紙を手渡すと、彼女はおずおずとそれを受け取り、大切そうに胸に抱えた。そして、今日一番の笑顔を見せた。その目尻に小さな玉が光る。
「ありがとう。うん。喜んで。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
俺は思った。
朝川さんには悲しみでなく、喜びの涙を流してほしい。そのためになら俺は何だってやれる気がする。
後日、涙のエピソードを話すと朝川さんは笑った。
「嘘泣きじゃ、ないよ?」
了
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