8

3/5
前へ
/18ページ
次へ
 あくびを噛み殺しながら俺はひたすら彼女だけを待つ。さすがに五時台は人がいない。早く来すぎただろうか。  段々と白んでくる空を見上げる。  朝はまだまだ寒い。けれど空気に花の香りなのか甘い香りが混じっている。春が近いのだ。  俺にも遅めだけれど春が来ますように。彼女と会えますように。  立っていると疲れてきたのでベンチに座った。冷たいベンチは俺の体温を奪っていく。俺は、マフラーに顎を埋めて、足のつま先を前後ろに動かし、寒さを紛らわせて待った。  時間と共にぽつぽつと人が来だした。  その中に彼女の姿を見つけた。  以前の電車より一時間ちょっと前の時間だった。  これじゃ会えないわけだ。  彼女は俺に気がつかない。時間が違うだけで、彼女は以前と同じ場所まで歩いていくと、そこで電車を待ち始めた。寒いのだろう。指に息を吹きかけ、さすっている。  俺は彼女が来たことに心底安堵した。  さて、これからだ。  俺は立ち上がって、彼女にそっと近づいていく。  彼女はまだ気づかない。まさか俺がこんな時間に張っているとは思っていないのだろう。  そんな彼女の肩を、俺は遠慮がちに叩いた。彼女が驚いたように俺を振り返る。俺を映した彼女の瞳が大きく見開かれた。 「か、笠原君?!」 「どうも」  俺はにっこり笑ってみせた。自分でも嫌味だったかなと思うくらい。 「あ……う……」  彼女は口をぱくぱくさせた後、その場から逃げようとした。その腕を軽く俺は掴んだ。  意外と往生際が悪いんだな。 「こらこら、どこに行くんだ? 言い逃げはずるいんじゃないの?」  俺の言葉に彼女は観念したように力を抜いた。そして、俺のほうに向き直ったものの、困ったように視線をうろうろさせる。 「あの……私……ごめんなさい」  そこまで言って、彼女は次の言葉を探せないようだった。 「何が? 電車を変えたこと?」  彼女は気まずそうに黙ったまま頷いた。 「時間を変えるって、君にとってはかなりリスキーだっただろう? そんなに俺に会いたくなかった?」 「それは……! ほんとはっ! 会いたかった、です。でも……」  彼女は俺を見上げて力いっぱい否定した。  俺はそんな彼女の必死な顔を可愛いなと思いつつ、 「うん?」  と先を促す。 「私、本当は渡すつもりなかったんです。同じ時間に同じ場所にいる。それで満足なはずだったんです」  彼女の顔が朱に染まっていく。耳まで赤くなった彼女に、俺も自分の顔が熱を持っていくのが分かった。  やばい。なんか、可愛いやら照れるやら。 「マフラーも、手作りチョコも、自己満足にしようって。でも、駅で笠原君を見たら、やっぱり渡したくなって。でもっ! でも、その後どんな顔して会えばいいか分からなくて! 自分でも予定外過ぎて! 怖くなって! 笠原君はモテるし、私なんか釣り合わないのも分かっているのに!」  彼女は痛々しいほど懸命に言って、ぽろりとまたダイヤのような涙を溢した。そして、 「ごめんなさい! こんな、泣くなんて狡いですよね! 見ないで!」  と言って、両腕で顔を隠すようにして後ろを向こうとした。  俺は持っていた鞄も包み紙も放り出して、その手を壊れものを扱うように取ってどけた。そして、震える親指で彼女の涙を拭った。彼女の涙は温かくて、触れてしまった頬は熱くて。俺は心臓が壊れるんじゃないかと思った。  彼女は惚けたように俺の顔を見上げている。 「大丈夫、だから。別に、狡いなんて思わないから」  彼女の瞳から、また感情が雫となって煌めいた。  本当にやばい。  めちゃくちゃ可愛い。  俺、泣き顔フェチなのか?   そうじゃない。彼女の気持ちが、なんか苦しいほど伝わってきて、愛おしい。俺のこと、本当好きなんだな。なんか嬉しすぎる。  俺は。 「え?」  彼女の困惑した声が俺の首あたりからした。  理性が飛んでいた。 「俺は君以外に好かれても意味ないから。……あったけー。待ってる間、寒くて、不安で。会えなかったらどうしようって。会えてよかった……!」  俺は彼女のうなじに顔を埋めるようにして、気持ちを吐露した。彼女は黙って、そして、身体を固くしていた。  まずい。やばい。俺、何してんだ。 「ご、ごめん!!」  彼女の緊張に気づいて、俺はがばっと身体を離した。なのに、彼女の頭の感触と体温が薄れていくのを寂しく思う俺は、なんて奴だ。 「いや、あの、その。ごめん。俺」  何を言ってもセクハラの言いわけにしかならない。色々言いたいことあったのに。 「その、俺、君が好きだから!」  俺の口からはその一言しか出なかった。  彼女は一瞬、ぽかんとして。そして。こんな笑顔するんだと思うほど、顔をくしゃくしゃにして笑った。その目からまた涙が溢れた。  彼女の嬉し涙は何よりも尊かった。  
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加