第1章

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昼過ぎに深月から電話があった。来週提出する地理の課題についての話をした流れで、数日前に呉内さんと夜景を見に行ったことや最近大学まで送ってもらっていることを伝えると、電話越しに深月が驚いているのがわかった。 「いつの間にそんなに仲良くなったの」 「仲良いのか? 誘われたから行っただけだし」 「仲良くないと行かないでしょ。前から思ってたけど、理人ってさ、もしかして兄弟が欲しかったの?」 「……は?」 「いや、だって朱鳥さんの話をしてるとき、いつもより楽しそうだし。ほら、小学生のころも京兄とよく遊んでたでしょ。だからお兄ちゃんが欲しかったのかなって」  指摘されるまで気づかなかった。たしかに小学生のころは同じ学校の友達と遊ぶより、京斗さんといるほうが楽しかったような気がする。京斗さんがかっこよくて憧れていたというのもあるが、本当はずっと兄が欲しかったのかもしれない。   「あー、たしかにそう言われればそうかも」  まさか大学生になって実は兄が欲しかったと自覚する日が来るとは思いもしなかった。小学生のころは近くに京斗さんがいたし、中学生以降はクラスの友達といるのが楽しかったら、一人っ子であることを気にしたことはなかった。  ああ、だからここ最近、呉内さんのことを意識していたのか。 「いい人だから、朱鳥さん」 「そうだな。いい人だと思う」  電話越しに深月が笑っていた。  夕方、もう一度カレーの容器を持って七階に向かった。途中で二十代くらいの男に会ったが呉内さんではなかった。突き当たりの部屋のインターフォンを押すと、すぐに部屋の奥からバタバタと足音が聞こえ、十秒もしないうちに内側からドアが開いた。 「はい……って、理人くん?」 「いきなりすみません。あの、カレーの容器を返そうと思いまして」  俺がビニール袋を見せると呉内さんは思い出したように笑って、カレーの容器を受け取った。 「わざわざありがとう。あ、そうだ。ちょうどよかった。今からご飯食べようと思ってたんだ。理人くんも一緒にどう?」 こんなに早く呉内さんの家で食事ができるとは思ってもみなかったが、まだ夜ご飯を食べていなかったので、ありがたく部屋に上がらせてもらうことにした。 呉内さんの部屋は片付いているというよりも物がなかった。案内されたリビングには革張りのソファとガラステーブルがあり、壁に大型テレビが掛けられているだけだ。ガラステーブルには汚れやほこり一つなく、革張りのソファはとんでもなく座り心地がいい。  ただ一つ気になったのは、テレビの横にある棚にうさぎのぬいぐるみが置いてあることだ。もこもこした薄茶色の布地はところどころに汚れがあり、耳や足の先は綿の膨らみがなく、ぺたんこになっている。椅子に座るような姿勢で棚に置いてあり、足がだらりと宙に浮いている。どう考えても、このビジネスホテルみたいな部屋には似つかわしくない。     中学時代に付き合っていた女の子の中に、二歳のころから持っているぬいぐるみを手放せないという子がいた。それと同じような感じだろうか。それともほかに何か特別な理由があるのだろうか。  どちらにせよこれだけ汚れていても飾ってるくらいだから、とても大切なものには違いない。  呉内さんが言っていた通りちょうどご飯が出来たところだったらしく、ソファに座るとすぐに料理が運ばれてきた。どれもこれもホテルのレストランで出てきそうな料理ばかりで、趣味とは聞いていたがあまりの完成度の高さに少し食べるのを躊躇った。 「おかわりもあるから、好きなだけ食べて」 「い、いただきます」 見た目通り味も最高に美味しくて、思わず変な声を出してしまった。どうしたらこんなに美味しくつくれるのか本当に教えてほしい。 「呉内さんの料理って、本当に美味しいですね」 この前行ったレストランよりも美味しかったので、思わず無言で食べ続けていたし、お言葉に甘えておかわりまでしてしまった。自分でこれだけ料理ができたら、きっと家でもインスタントラーメンなんか食べないだろう。 「君がそう言ってくれると嬉しいよ」  呉内さんが大きな目をすっと細めて笑う。こんな人が自分の兄だったら、きっとみんなに自慢してるだろうな。少しだけ深月の気持ちがわかったような気がした。 「それにしても、部屋めちゃくちゃ綺麗ですね」 「そうかな。単に引っ越してきたばかりで物がないだけだよ。海外にいた時は家具つきの部屋を借りていたからね」 「じゃあ、こっちに来てから全部揃えてるんですか?」 「そうだよ。はじめは日本でも家具つきの部屋にしようかと思ったんだけど、このマンションのほうが色々条件が良かったんだ」 食後はソファに座ったまま話をしていたが、棚にあるうさぎのぬいぐるみが視界に入るたびに気になって、呉内さんの話に集中できなかった。よく見るとうさぎの足の部分が少し破れていて、中の綿が飛び出ている。 「理人くん? どうしたの?」 「あ、いや、あのうさぎ……足が破れてるなって」 「あ、本当? ずいぶん前から持ってるからね」  呉内さんが立ち上がって、棚に座っていたうさぎの足を見る。飛び出ている綿を指で布の奥に押し込む。 「よかったら、直しましょうか?」 「え? いいの?」 「料理以外はできるんで」  うさぎのぬいぐるみを受け取り、糸と針を借りる。近くで見ると可愛い顔をしている。本格的なうさぎではなく、子供のころに買ってもらうような、マスコットみたいなぬいぐるみだった。破れてる部分は小さかったので、縫い直すのはすぐに終わった。 「できました!」 「ありがとう。直ってよかった」  呉内さんはうさぎのぬいぐるみを抱きしめ、嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、思わず胸がきゅっと締め付けられる。こんなに喜んでもらえるなら、やってよかったと思う。 「もし、また破れたらいつでも直しますよ」 「ありがとう。理人くんは器用だね」 「いえ、そんな……ちょっと直すくらいしかできないですけど……」 「十分だよ。もう何年も前に貰ったものだから、どうしてもほつれたり、破れたりするんだよね」 「貰いものなんですね」  きっと子供のころに親や親戚から貰ったのだろう。このうさぎをプレゼントした人も、こんなに大切にしてもらえたら嬉しいと思う。  呉内さんは壊れ物でも扱うように、そっとうさぎを棚に戻した。
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