第1章

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 俺自身、合コンに参加しておきながら彼女をつくらなかった理由はわかっていない。記憶がないのだから考えたところで答えは出ないが、飲みすぎてそれどころではなかったという可能性が一番高い。  でも、もしあのときそんな無茶をしなければ、呉内さんのお世話になることはなかったし、聖女の可愛い彼女ができていたかもしれない。そうすれば呉内さんだって俺に告白しようなんて思わなかっただろう。 「たまたまだって」 「そう? ならいいけど」 「あ、そういえばさ……呉内さんって彼女いんのかな?」  言うつもりはなかった。ただ会話を止めるとまた昨日のことを考えてしまいそうだったので、つい口を滑らせてしまった。結局、昨日のことを忘れようとするあまり、自ら呉内さんの話題を出してしまった。  本人はいないと言っていたし、俺に好きだと言ったのだから彼女なんているはずがないのに、実は学生時代から付き合っている彼女がいて、俺のことは単にからかっているだけだから気にしなくていいと、誰かに言ってほしかった。 「んー、どうだろう。俺もさすがにそれは知らないな。でもモテそうだよね。イケメンだし」  深月の答えに少しだけ安心する。そうだよな。絶対モテるし、男なんか好きになるはずないよな。 「でも何で朱鳥さん?」 「あー、その、ほら。同年代は飽きたっていうかさ。呉内さんに社会人の女の人を紹介してもらうのもアリかなって……」 「ああ、そういうことか。あの人なら美人な知り合い多そうだしね」  そう言ってから深月は続けた。 「でも無理して、今彼女をつくらなくてもいいんじゃない? どうせもうすぐ学祭だし」 「え?」 「だから来月は学祭があるでしょ。 ほかの大学の女の子も社会人の女の人もたくさん来るだろうから、慌てて彼女をつくる必要ないって」  ああ、そうか。来月は学祭か。バイトと呉内さんのことで頭がいっぱいですっかり忘れていた。  たしか学科対抗で屋台を出すらしいが、俺は参加しないので客として行って彼女を探すのもいいかもしれない。わざわざ紹介してもらったり合コンに参加するよりも多くの人と出会えるし、そっちのほうがいいだろう。  学祭で彼女ができればきっと呉内さんも俺のことを諦めるだろうし、俺も余計なことを考えなくて済む。もし昨日の告白がからかっていただけなら、きっとすぐに俺に対する興味を失うだろう。どちらにせよ俺にはいいことしかない。 「じゃ、明日は遅刻しないようにね」 「大丈夫、大丈夫」  深月と別れてからそのままカルラに向かった。今日のシフトは俺と氷坂さんと二人でラストまでだ。カルラの従業員用の入り口から中に入ると、なぜか今日のシフトには入っていないもう一人のバイトの井坂くんがいた。 「お疲れ……ってあれ? 井坂くん、今日休みじゃなかった?」 「お疲れ様です。それが氷坂さん、入院することになったんですよ」  年上なのになぜか敬語で話すうえ、他人にはタメ語で良いと言う謎のバイトの井坂くんは、すでにエプロンをつけて準備を終えていた。 「は? 氷坂さんが入院?」 「今日の朝の営業中に倒れたらしくて。だから佐倉さんがちょっと残業してて、俺も急遽呼ばれたんですよ」  まさか重い病気とかじゃないよな。あの人、歳のわりに結構無理するところあるから、可能性としては十分ある。 「たぶん過労だろうって。氷坂さん、この上が自宅だからって結構働いてたじゃないですか。そのせいじゃないかと思います」  いくらアルバイトとパートがいるとはいえ、毎日出勤できるわけでない。井坂くんはフリーターなので極力シフトには入るようにしているらしいが、それでももともと人数が少ないため、欠員が出た場合は氷坂さんが人員を補っている。  倒れるほど働いているなら、もう少しアルバイトを雇ったほうがいいのかもしれない。 「とりあえず今日は俺と八月一日さんでラストです。佐倉さんにはもうあがってもらいます」 「わかった」  俺と井坂くんが出勤してすぐに佐倉さんにあがってもらい、このまま閉店までの五時間を井坂くんと二人で店を回すことになった。  更衣室に入り、ニットを脱いでシャツに着替えようとしたところで、首の絆創膏の存在を思い出した。壁際にある姿見で確認すると、シャツを第一ボタンまで閉めれば、ぎりぎり見えない位置だった。 「これならいけるか……」    エプロンを腰に巻いて髪を束ねる。タイムカードの代わりに出勤時間を記入しカウンターに入る。井坂くんは一年先輩なのでキッチンを任せて、俺は今日一日ホールに出ることになった。  運が良いというべきかこの日はあまり混むことがなく、比較的ゆったりと働くことができた。  井坂くんはカルラの従業員の中で一番仕事ができるので、何かあったときは即座にフォローしてくれるし、注文されたメニューを準備するのも早い。おかけで特に困ったこともなく、気がつけば夜の八時半を過ぎていた。  客も夕方に比べるとずいぶん減り、カウンターで少しの間ぼうっとしていると、入り口のベルが鳴った。 「いらっしゃいま……せ」  普段通り客を出迎えに入り口に行き、入店した客と目が合った瞬間、体がほんの一瞬硬直して動かなくなった。 「こんばんは、理人くん」 「こんばんは」  店に入ってきたのは、スーツ姿の京斗さんと同じくスーツ姿の呉内さんだった。 「こ……こんばんは」  まさか昨日の今日で会うことになるとは思わなかった。というか、何で普通に来てるんだよ、この人は。まるで何事もなかったかのように、にこにこと愛想のいい笑みを浮かべている。 「理人くん、大丈夫? 何かぼうっとしてるみたいだけど」  京斗さんが心配そうにそう言うので、慌てて笑顔を取り繕い、大丈夫だと言って席まで案内した。 「お仕事お疲れさまです」 「ありがとう。今日はちょっと忙しくて疲れちゃったから、朱鳥と甘いもの食べに行こうって話になったんだ」  京斗さんと呉内さんはケーキとドリンクのセットを注文した。すぐにキッチンに行こうとしたところで呼び止められた。 「あ、理人くん」  呼び止めたのは京斗さんではなく呉内さんだった。とたんに鼓動が速くなり、全身から血の気が引く。落ち着け、大丈夫。今は仕事中だ。それに京斗さんもいるんだ。絶対に大丈夫だから、何としても平静を装わなければ。 「はい……何でしょう」 「エプロンの紐、ほどけそうだよ」  呉内さんに指摘されすぐに右手を後ろに回すと、たしかにエプロンの紐がほどけかかっていて、だらしなく垂れているようだった。 「あ、ありがとうございます」  極力目を合わせないようにして礼を言い、すぐにキッチンに入り、オーダーを通してからエプロンの紐を結び直す。  キッチンとホールを代わって欲しいところだが、今ここで交代するのは不自然だし、呉内さんはまだしも京斗さんがいる以上それはできない。  カルラでは知り合いが客として来た場合は、その客と知り合いの店員が対応することがほとんどだ。ルールとして決まっているわけではないが、深月が来たら俺がキッチンにいてもホールに出るし、井坂くんの知り合いが来たら井坂くんがホールに出る。  だから今ここで俺がキッチンに入るこはあまりにも不自然だ。そもそも井坂くんはキッチンを回すのが得意だし、今日はラストまでホールをやり切ると言った手前、交代を申し出ることはできない。 「八月一日さん、これよろしくお願いします」  ごちゃごちゃと考えている間に、二人が注文したケーキコーヒーの準備ができたので、諦めるしかなかった。 「お待たせいたしました」  あくまで仕事中だと呪文のように自分に言い聞かせて、二人が待つ席に向かうと、予想に反して席には京斗さんしかいなかった。  どうやらトイレに行っているらしく、これはチャンスだと思い、素早くケーキとコーヒーをテーブルに置いてカウンターに戻ろうとした。戻ろうとして小さな段差で躓いた。この喫茶店はテーブル席だけ少し床下が低くなっている。その段差に見事に躓いてしまった。 働きはじめたばかりのころは何度か躓くことがあったが、ここしばらくはさすがに慣れていたのであまり段差を注意しなくなっていた。  慌てて体勢を戻そうとしたがうまくいかず、そのまま床に倒れそうになった。
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