第1章

14/14

201人が本棚に入れています
本棚に追加
/74ページ
 呉内さんが会ったばかりの俺を好きになった理由は、一体何なんだろう。 「引きました?」 「いや、単に驚いただけ。言われてみないとわからないものだなあって」 「公言してる人が少ないですからね。それに中には男女両方が恋愛対象の人もいるんで、本当に言われないとわからないと思います」  井坂くんはそう言ってから、しばらくの間テーブル席に座る呉内さんと京斗さんを見ていた。ふと、井坂くんの好みはどちらなのだろうと気になった。  京斗さんはザ・爽やかイケメンという感じで、人懐っこい笑顔が深月とよく似ている。対して、呉内さんはとにかくきれいな顔をしている。笑顔はつくりものみたいで、京斗さんと比べると少し近寄りがたい雰囲気もある。   どちらもかっこいいことは同じで、今だってコーヒーを飲みながらケーキを食べているだけなのに、ドラマとか映画のワンシーンに見える。    だからといって、恋愛対象に入るかと聞かれれば話はべつだ。恋愛ということは手を繋いだりキスをしたり、それ以上のこともするわけだ。つまり、これまで自分が彼女にしてきたことを男にされるとういうことだ。  ……待てよ。二人とも男ってことは夜はどちらかが下になるんだよな?  相手が年上ともなればやはり俺が下になるのか? 力関係的に。あと俺のほうが背も低いし。自分が今まで見ていた光景を自分がやることになるわけだ。ダメだ。全然想像できない。というか、どう考えても無理だ、そんなことできるわけない。 「あ、そうだ。奥の電気、たまに消えるんで見てきます」  じっと二人を見ていた井坂くんが、思い出したようにそう言った。 「俺が見てくるよ。脚立出すの面倒だろ?」 「いいんですか? ありがとうございます」   井坂くんはわりと小柄なので、天井から吊るされているペンダントライトの電球を変えたり、換気扇を掃除するとなると大きな脚立を出さなければいけない。   大きな脚立は更衣室の奥に追いやられていて、そこから出すだけでも苦労するので、高いところに置いてあるものを取るときや天井の電球を変えるときは背の高いスタッフがやるのがほとんどだ。  奥の電球は天井が少し低くなっているところにあるので、俺ならカウンターにある小さい踏み台で届くし、何より余計なことを考えてしまったせいで、呉内さんと極力話をしたくなかった。  京斗さんと呉内さんがまだテーブルで談笑しているのを確認し、踏み台を持ってカウンターの奥にある電球を見に行った。  井坂くんが言っていた通り、電球はついたり消えたりしていた。更衣室内にある小さな備品ボックスから新しい電球を取り出して付け替える。この作業は十分もかからなかった。  これじゃあ、まだあの二人は席にいるだろう。大した時間稼ぎにもならないとわかりつつ、壁にもたれて大きく伸びをし、そのまましゃがみ込んで、少しの間ぼうっとしてみる。井坂くんには電球を取り替えるのに手こずってしまったと言えばいいだろう。  しかし何も考えないようにしようとすればするほど、昨日ことを断片的に思い出してしまう。  一度思い出すと、ベッドの上でこちらを見下ろすあの人の顔が脳裏に焼き付いて離れない。手首の鬱血は消えたが、気を抜くと握り締められたときの感覚がよみがえる。  これなら仕事で気を紛わせているほうがいいようなが気がするが、戻ったら戻ったで本人がいる。 「あー、クソ!」  どちらにしろ考えてしまうなら、早くカウンターに戻ったほうがいいだろうか。長時間ここにいるとサボってると思われる可能性もあるし。  これ以上の時間稼ぎは諦めて、気を取り直そうと大きく深呼吸し、踏み台を片手にホールに戻った。 「ありがとうございました」  井坂くんはホールでテーブルを拭いていた。その席はさっきまで呉内さんと京斗さんが座っていたはずだ。 「あのお二人ならさきほど帰られましたよ。八月一日さんを呼ぼうとしたんですけど、大丈夫だって言われまして」 この短時間で帰ったというのは予想外だったが、会わずに済んだのはありがたかった。 「ドアベル聞こえなかったけど、あれも調子悪い?」 「そうですね。ときどき中のベルの動きが悪いみたいです。氷坂さんが退院したら相談してみます」  ずいぶんと年季の入った喫茶店なので、色々な場所で不具合が出るのは仕方ない。この雰囲気を気に入っている客がほとんどだから、あまり口を出すことはできないが、ドアベルくらい変えてもいいかもしれない。 「優しい方々ですね」 「え?」 「八月一日さんの知り合い」 「あ、ああ。うん」  俺がいない間に三人でどんな話をしたのだろう。レジでお会計をしながら話す井坂くんと呉内さんを想像する。かっこいいと思っていた人と話してみて、井坂くんはどう思ったのだろう。  そこまで考えて、いなくなっても呉内さんのことで頭がいっぱいになっていることに気がつき、このままではよくないと慌てて仕事に取り掛かった。  それから閉店時間まで客が来ることはほとんどなかった。満席にでもなれば、呉内さんのことを考えている暇もなくなるのに、こういうときに限って、店はホタルノヒカリが流れるまでずっと静かだった。 「疲れたー」  帰宅早々五分だけソファに倒れたが、このままでは寝てしまいそうだったので、すぐにシャワーを浴びて数日ぶりにコンビニ弁当を食べた。  呉内さんの料理を食べたあとだと、どうしても物足りないような気がしたが、だからといってまた食事に誘われても行く気にはなれないので、仕方なく弁当を完食して布団の中に入った。  布団に入って十分ほどで意識が飛びそうになったちょうどそのとき、スマホの着信音が鳴った。こんな時間に誰だろうと思いながら、きちんと画面を確認せずに電話を取った。 「はい、もしもし」  深月か近野か、あるいは稀に電話をかけてくる親かと思ったが、どうやら思い違いだった。相手は何も言わずに電話を切った。無言電話かそれとも間違い電話か。  前に近野がスマホを触っている途中で寝てしまい、偶然にも俺に電話がかかってきたことがあった。今回もそうだろうと思い、スマホの画面を見ると「非通知設定」と表示されていた。  非通知ということはいたずら電話か詐欺の電話だったのかもしれない。いや、詐欺なら無言で切るはずがないか。  となると迷惑電話か。迷惑メールが送られてきたことはあったが電話ははじめてだったが、バイト終わりで疲れていたというのもあり、あまり気に留めずにスマホを閉じて眠りについた。
/74ページ

最初のコメントを投稿しよう!

201人が本棚に入れています
本棚に追加