プロローグ

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大学を出て二十分ほど歩いたところで、喫茶店カルラの看板が見えてきた。住宅街にひっそりと建つその店は、よく見ていないと通り過ぎてしまうような控えめな外観で、まずここを知らない人は入らないだろう。 正面入り口から見て右側の細い道を二、三歩進んだところに勝手口があり、従業員はそこから入る決まりになっている。ドアを数回ノックして中に入ると、カウンター内で店長の氷坂(こおりざか)さんが新聞紙を広げ、顔を近づけたり離したりしながら険しい表情で読んでいた。 「ああ、理人くん。ちょっとこっちに来てくれないか」 氷坂さんが読んでいるのは英字新聞だ。何でも二十年近くアメリカに住んでいたせいで、日本語より英語のほうが慣れ親しんでいるのだと、面接のときに話していた。 「ここの行、なんて書いてある?」 五十代になってから急速に視力が低下しはじめたらしく、ときどきこんな風に何が書いてあるのか、また何が見えるのかと聞かれることがある。 俺は氷坂さんの隣に行き、指をさしている行の文字を頭の中で翻訳しながら読みあげた。 「『私にとってそれは人生を変えるほどの出会いであり、まるで幸福に満ちた夢を見ているかのような、素晴らしい体験でした』」 その文だけでは詳しい内容はわからなかったが、見出しを見る限り、それは海外の人気俳優が同性愛者であることを公表したというものだった。 週に二、三度しかテレビを見ない俺でも、顔と名前が一致するほど有名な俳優だ。アクションやホラーなどありとあらゆる映画に出ており、役者としてさまざな賞を受賞している。 新聞には俳優本人のコメントが全文掲載されており、一行目には『心の底から愛する人のために、私は三十年間守り続けた秘密を公表することにしました』と記載されていた。 コメントの横には俳優の顔写真が掲載されている。私は幸せですと、大声で叫んだあとのような笑顔だった。俺はなぜかその写真から目が離せないでいた。 「ありがとう。出勤は四時からだったね」 「はい。今日は深月が来るって言ってました」 「ああ、あのコーヒーが好きな子か。今日はとびきり良い豆が手に入ったんだ。きっと喜ぶよ」     氷坂さんは新聞を折りたたんで脇に挟むと、壁に手をつきながらゆっくり歩いてカウンターの奥へと入って行った。 この時間は客が少なく、今は一人もいない。カルラの客層は主婦かサラリーマンがほとんどなので、日によって違いはあるが、だいたいは朝と昼の三時前後と、夕方以降に混み合うことが多い。 平日ともなれば、一時間や二時間客がいないのはよくあることだ。それでも経営が成り立っているのは、毎日といってもいいほど来る常連客と、彼らの紹介でやって来る金に余裕のある客のおかげだ。 カルラの従業員は、店長の氷坂さんとパートタイマーの皆河さんと佐倉さん、俺ともう一人のバイトの男の子の計五人しかいない。 店が小さいので、閑散としている時間帯は氷坂さんが一人で働いていることもある。二階が氷坂さんの自宅なので、ここで長時間働いていても苦ではないそうだ。 氷坂さんのあとに続いて、カウンターの奥にある更衣室に入った。カウンター奥の右側には、あまり広いとは言えない従業員用の更衣室があり、人数分の鍵付きロッカーと折りたたみの椅子が二脚置かれている。 自分のロッカーに荷物を入れ、バイト用に持ってきた白いシャツを着て黒いズボンを履く。ハンガーラックから黒いエプロンを取って腰に巻き、肩にかかりそうなくらいまで伸びた髪の毛を一つに束ね、最後に名札を付ければ完成。 三時五十五分。タイムカードの代わりである出勤表に出勤時間を記入し、手を洗ってからアルコール消毒をする。 カウンターから店内の様子を見みるが、さきほどと変わらず客は一人もいない。俺と交代で氷坂さんは休憩に入るので、ここから二時間くらいは俺一人で店を回す。ケーキは朝に氷坂さんがつくったものがショーケースに並んでいるし、そのほかの軽食はレシピを確認すれば料理が苦手な俺でもつくることができる。 この時間帯に来る客は夕飯前ということもあり、軽食を頼むことはほとんどない。基本的にはコーヒーと甘いものが好きな客が、ときどきケーキセットを注文するくらいだ。 カルラをバイト先に選んだのは、俺の好物がロールケーキだと知っている知り合いが、それならここのロールケーキは絶対に食べておくべきで、食べなければロールケーキを語ることは許さないという、半分脅しみたいな誘い文句に押されて、客として来店したことがきっかけだった。 はじめて来たときは客の少なさに驚いたし、何よりその知り合いの味覚が心配になったが、運ばれてきたロールケーキを一口食べた瞬間、俺はここでバイトをすると決めた。 両親ともに大学教授という裕福な家庭に生まれ育ったおかげで、それなりにいいものは食べてきたし、何より俺の好きな食べ物ランキングの一位に輝くロールケーキは、ネットでありとあらゆる有名店から取り寄せてもらっていた。 幼いころから、舌にまとわりつくような甘ったるいもの、コーヒー味や紅茶味の甘さ控え目のもの、風変わりな見た目のものや、フルーツがたっぷり入っているものなど、数々のロールケーキを食べてきた。 しかしカルラのロールケーキを食べたとき、今まで食べてきたものとはまったく違うその味や食感に素直に感動した。 どこのどんな有名店のロールケーキより、街中にある五十代の男が経営している店のロールケーキのほうが美味しかった。バイトとして働けば余ったケーキを持って帰れるし、好きなものを扱っている仕事なら楽しいだろうと、そう思った。    軽食をつくらなければならないのは誤算だったが、メニューが変わることはほとんどないので、なんとかつくれるようになった。
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