第2章

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 やってしまったと気づいたときには、時すでに遅し。せっかく呉内さんから離れる口実ができたのに、よりによって二人きりになる選択を取ってしまった。  北館は学祭の準備のために使われており、来場客は立ち入り禁止となっている。俺は女の子の集団から逃れるために呉内さんの手を引き、北館の空き講義室に逃げ込んだ。  走っている時は逃げるのに必死だったが、講義室で呉内さんと二人きりになったとたん、我に返り掴んでいた手を離した。 「……こ、ここなら、客は入れないので大丈夫だと思います」  冷静になったとはいえ、ここで講義室を出るのもおかしな話なので、仕方なく居座ることにした。 「すごい人の数だったね」 「そうですね。学祭は後夜祭を含めてもあと二時間くらいですし、終わるまではここで……」  眠かった。慣れない格好で丸一日大学内を歩き続け、さらには女装コンテストに出場したことで、疲労はピークを迎えていた。コンテストでステージに立っているときのようなアドレナリンがここで出るはずもなく、むしろ人がいなくなったことで気怠さと眠気が全身を襲った。  だから、あっという間だった。視界が反転し、背中に痛みを感じるまであっという間だった。目の前には呉内さん、その向こうには天井が見える。背中はおそらくテーブルの上、足は地面についているが、両手は頭の上で押さえつけられている。  自分の状況を他人事のように理解した。たぶん疲れすぎていたせいだ。抵抗しても勝てないことはわかっている、というのもあるかもしれない。 「理人くん」 「えっと……呉内さん?」 「まさか君が自分から俺と二人きりになることを選ぶとは思わなかったよ」 「……さすがにあの状況はよくないんで」 「ダメだよ。警戒しなくちゃ」 「そう、ですね……」  頭が回らない。この状況を打開する策が思いつかない。どうすることもできないとわかると、どうする気も起きなくなった。  呉内さんの手が服の下に入り込み、腹部を優しく撫でられる。あれだけ触れられたくないと思っていたのに、なぜか今はその行為にゾクゾクする。触れられる度にその部分が熱を帯びていく。自分がされていることを理解しながらも、頭はずっとぼうっとしている。 「……可愛い」  呉内さんはすっと目を細めると、俺にキスをした。舌で歯をなぞられ、無理やり口をこじ開けられる。舌が入ってくる。うまく呼吸ができない。静かな講義室内に水音が響く。目尻から涙が流れる。嫌悪感はない。  呉内さんの手がスカートの中に入る。内腿を優しく撫でられ、反射的に腰が浮く。 「気持ちいい? 腰、浮いてるよ」  耳元で囁かれるも、恥ずかしくて返事ができない。しばらく触られ続けたかと思うと、急に全身に電気が走ったような感覚があった。 「あっ……そこ……触んなぁっ……!」 「理人くんの体、敏感だね。早く俺のものになって」  その声には逆らえない。拒絶したいのに言葉が出てこない。ただただ全身が快楽でいっぱいになり、頭がおかしくなりそうになる。ぐちゃぐちゃになった思考を整理できず、何も考えられなくなった瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。 「うあ……!?」  目を開けて真っ先に見えたのは、自分の視線より上にある講義室のテーブルと椅子だった。 「おはよう」  左隣から声がして振り向くと、呉内さんがこちらを見て笑っている。想像よりも距離が近くて小さく声が漏れる。今何がどうなっているのか、頭をフル回転させる。記憶にある一番最後の光景を思い出す。  ……あのとどうなった? もしかして襲われて意識を飛ばしたのだろうか。 「あの……俺は……」 「講義室に入ってここに座ってるうちに眠ったんだよ」  改めて自分の状況を確認すると、講義室の一番うしろの壁に背中を預けて、三角座りをしていた。呉内さんも俺の隣で同じように三角座りをしている。膝には呉内さんが着ていたジャケットがかけられている。  そこまで確認してようやく思い出した。講義室に入ってすぐに後ろの窓から大学内の様子を見、一息ついてからその場に座り込んだ。  それからの記憶は途切れており、次に覚えているのはテーブルに押し倒されているシーンだ。つまり呉内さんの言う通り、そのまま寝てしまったのだろう。  ……つまり、あれは夢か。  いや、なんつー夢見てんだよ。  勝手にここまで連れてきて、勝手に眠ったあげく襲われる夢を見るなんて。恥ずかしさのあまり呉内さんの顔を見るのも気まずくて、極力視線を合わせないようにした。 「すみません。勝手にこんなとこに連れてきて……」 「ん? むしろ俺はすごく助かったよ。ここなら誰にも会わなくて済むしね」 「すごい人の数でしたね」 「ね。理人くん、すごい人気でびっくりしたよ」  人気だったのは俺じゃなくて呉内さんだと思うが。どちらにせよあの人数を相手にするのは一苦労だ。疲れ果てた俺と部外者の呉内さんがやることじゃない。 「学祭が終わればみんな忘れてますよ」 「……そうだといいけど。でもそろそろ出たほうがいいんじゃない? もう後夜祭はじまってるみたいだよ」  講義室内の時計を見ると、たしかに後夜祭はすでにはじまっていた。だが、今から参加する元気はない。屋台も後夜祭が終わるまで営業しているらしいが、もう宣伝なんかしなくても十分売り上げは取れているだろうし、ダンスサークルのショーとか有志によるラップバトルとかはそもそも興味がない。だからわざわざここを出てまた人に囲まれるメリットはない。 「あ、いや、俺はちょっと疲れたんで、学祭が終わるまでここで休みます。出たらたぶんまた宣伝させられそうなんで」  近野には適当なことを言って誤魔化せばいいだろう。深月には悪いが、あいつなら別に俺がいなくても自分の好きなように行動するだろう。 「そっか……ねえ、理人くん」  呉内さんに名前を呼ばれた瞬間、さきほどの夢がフラッシュバックする。実際には体験していないのに、手や腹部に触れられた感触がよみがえる。思い出しただけでも全身が熱くなる。 「……はい」  あの夢と同じようになるのだろうか。決して襲われたいわけじゃない。呉内さんの好意を受け入れたわけじゃない。  それなのにどうしてもこの場から動けない。だからここでたとえそういうことになったとしても、これは俺が悪い。逃げようと思えばいくらでも逃げられたのに、それを放棄したのは自分なのだから。 「俺もここにいていいかな?」 「え?」 「人が多い場所は苦手なんだ。ちょっと気疲れしてね。帰ってもいいんだけど、三森教授から後夜祭のあと屋台運営メンバーで打ち上げをやるって連絡が来たんだ。ぜひ卒業生も一緒にって」 「あ、そうなんですか……」 「もちろん理人くんと深月くんも一緒に」    その話を聞いて、ようやくコンテストがはじまってからずっとスマホを見ていないことを思い出した。すぐにポケットからスマホを取り出して確認すると、深月から打ち上げの連絡が来ていた。 「理人くんは打ち上げどうする?」 「参加します」  深月に打ち上げに参加することを伝えると、犬のスタンプで了解と返事が来た。 「じゃあ、それまで一緒に休憩してもいいかな?」 「あ、はい。学祭の準備にも使われていない講義室なんで誰も来ませんし、終わるまでここにいましょう」  このまま一緒にいれば何をされるかわからない。でも俺は呉内さんと二人でここにいると決めた。それはたぶん、あのときの呉内さんに対する恐怖心がほとんどなくなっていたからだ。  ……あれも夢だったらよかったのに。  それから後夜祭が終わるまで俺たちは静かに講義室の中で過ごした。ほかに誰もいないのに、お互いにしか聞こえないほどの小さな声で言葉を交わして、笑って。まるで世界から切り離されてみたいに落ち着いた時間が流れていた。  学祭が終わる花火の音が聞こえるまでの間、二人だけでずっとそこにいた。
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