プロローグ

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四時十五分。  カランコロンと、アンティークなデザインのドアベルが鳴った。この音が鳴った瞬間、常連客の誰が来たのかを想像することがクセになりはじめていた。 「いらっしゃいませ」 夕方に来る客はだいたい決まっているので、ある程度予想できるし、それによって俺は接客態度を変えなければいけない。 もちろん悪態をつくというわけではなく、こういった常連客ばかりが来る店では、マニュアル通りではなくその人その人にあった対応が求められる。そうやって客一人一人との繋がりを保つのだと、氷坂さんが入社当初に教えてくれた。 しかし今店のドアを開けたのは、作家志望の丸メガネの男でも双子を連れてやってくる若い主婦でも、一流企業に勤めているラフな服装の男でもなく、ついさっきまで一緒にいた幼馴染みだった。 会わせたいと人がいるとは言っていたが、まさかこんなに早く来るとは思わなかった。 「深月、お前来るの早すぎ……って京斗(みやと)さん?」 深月の隣にはスーツを着た背の高い男性が立っていた。爽やかイケメンという言葉が似合う顔つきで、まだ暑さの残るこの時期に、長袖のジャケットを羽織っていても暑苦しさを感じさせない、清潔感のある男性だ。 俺はその顔に見覚えがあった。自分で名前を呼んでおいて、それが合っているのかどうか不安になる。最後にこの人の顔を見たのは何年前だっけ。 昔は一緒にいることが当たり前だったのに、今ではこうして顔を合わせること自体、新鮮な気がしてならない。 「久しぶりだね、理人くん。元気だった?」 その声を聞いて、ようやくこの人が俺の記憶にある京斗さんだと確信できた。 京斗さんは深月の八歳年上の兄だ。二人は年が離れているからかとても仲が良く、幼馴染みである俺も小さいころはよく京斗さんに遊んでもらっていた。 兄弟のいない俺にとっては兄のような存在であり、とてもお世話になった人だ。京斗さんは有名大学を卒業後、一流企業に就職し半年後に海外の支社に異動になったため、会うのはずいぶんと久しぶりだった。 「お久しぶりです。俺は元気ですよ。いつこっちに戻って来られたんですか?」 「昨日の朝だよ。仕事の都合で日本に戻ることになったんだ。これからは深月と一緒に暮らすから、また良かったら遊びに来て」 深月の人懐っこい笑みとはまた違うが、爽やかで感じの良い笑みを浮かべながら、京斗さんは頭一つ分ほど背の低い弟の頭を撫でた。 会わせたい人って、京斗さんのことだったのか。 可愛い女の子を彼女に出来ないことは残念だし、深月に彼女が出来るというのも俺の妄想で終わってしまったが、京斗さんには会いたかったので顔を見ることが出来て嬉しかった。 二人を壁際のテーブル席に案内し、コーヒーとバームクーヘンを用意する。さすが仲良し兄弟というべきか、二人とも食の好みは似ているので、このセットで問題ないだろう。 バームクーヘンを皿に乗せ、マグカップにコーヒーを注いでいると、目に見えて楽しそうに笑う深月と、それを穏やかな目で見る京斗さんの顔がカウンター内から見えた。 海外で働きはじめてから仕事が忙しく、大好きな兄が年に一度しか帰ってこないのだと、深月が不満を漏らしていた日々を思い出す。 幼い頃からどんな時でも一緒にいた京斗さんとまた一緒に暮らすことができて嬉しいのだろう。そりゃ大学を出るときもあんな笑顔を見せるわけだ。 俺は小さめのトレーに皿とマグカップを乗せて二人の待つ席に行く。 「お待たせ。お前の好きなコーヒーとバームクーヘンな。京斗さんもどうぞ」 「ありがとう」 「ありがとう、理人。京兄、ここのバームクーヘン、すっごく美味いんだよ」 「へえ、それは楽しみだ」 「せっかくだからゆっくりしていってください」 二人がコーヒーを飲みはじめても客は来なかった。普段ならこの時間に一人か二人は来るが、今日ばかりはなぜか誰もやって来ない。 店として売り上げがたたないのは困るが、久しぶりに再会した兄弟が水入らずでゆったりとした時間を過ごせるならそれもいいかもしれない。 客が来ないとはいえやることがないわけではないので、深月たちの邪魔にならないように、俺はきちんと決められた仕事をこなす。 店内にはときどき深月の笑い声が響き、そのあとには必ず京斗さんが何か声をかけていた。本当に仲がよくて羨ましい。 一通りこの時間帯の仕事を終えたところで、トイレのために席を立った京斗さんがカウンター越しに声をかけてきた。スーツを着ているせいか、俺なんかよりこの喫茶店の雰囲気に合っている。 「ねえ、理人くん。この店に知人を呼んでもいいかな?」 「はい、構いませんよ」 この喫茶店に呼ぶということは、学生時代の友人だろうか。久しぶりの日本で会いたい人はたくさんいるだろうし、こちらとしても客が増える分には問題ない。むしろありがたいくらいだ。 京斗さんは人あたりの良い笑顔でお礼を言うと、カウンターの横にあるトイレに入って行った。
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