プロローグ

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 それから二十分ほどして、店のドアベルが鳴った。仕事に集中していたせいで京斗さんの話をすっかり忘れており、てっきり常連客の誰かが入店してきたのだと思った。 すぐに挨拶をしようとカウンターを出て、店の出入り口付近に立つ男に目を向けたとたん、俺はかける言葉を失った。 初対面の相手の顔をじっくりと見たのは生まれてはじめてかもしれない。店内に入ってきたのは常連客ではなく、まったく見覚えのない男だった。 スーツを着て立っているだけなのに、俺はその男から目を逸らすことができない。 「早かったね、朱鳥(あすか)」 京斗さんが俺の横を通りすぎ、入ってきた男に声をかけているのを見て、ようやくこの人がさっき言っていた知人なのだと理解した。 「悪いね、兄弟水入らずのときに」 「いや、深月もお前に会いたがってたから」 「それは嬉しいね。ここで話すと店員さんに悪いから席に行くよ」 男は京斗さんから視線をずらし、俺を見てきれいに笑った。色素の薄い目と目が合う。イケメンというよりはきれいというほうがしっくりくる。そんな顔だ。深月や京斗さんとはまた違うタイプの美形。人の顔を見て驚いたのは生まれてはじめてかもしれない。それくらい、インパクトのある整った顔だった。 「ああ、彼は深月の友人なんだ」 男は俺の前まで来ると、少しだけ視線を下げた。背は京斗さんと同じくらいで、要するに俺より五センチほど高い。 「そうなんだ。えっと、八月一日(ほずみ)くん? かな」 いきなり名前を呼ばれて焦ったが、今はバイトの真っ最中であり、胸元に名札をつけていたのを思い出した。 「あ、朱鳥さん! こんにちは!」 座ったままスマホをいじっていた深月が男の存在に気づいた瞬間、嬉しそうにこちらにやって来て挨拶をした。 「こんにちは、深月くん。久しぶりだね」 「お久しぶりです。また朱鳥さんに会えて嬉しいです! あ、こっちは俺の幼馴染みの八月一日理人。ここでバイトしてるんです」 「深月くんのお友達なんだね。はじめまして。俺は京斗の同僚の呉内朱鳥(くれないあすか)。よろしくね」 「え、ああ、どうも」 類は友を呼ぶというのはまさにこのことか。京斗さんと呉内さんは二人とも顔が整っているし、並んで立っているだけで絵になる。ここに女性客がいれば大騒ぎになりそうだ。 「ここのコーヒーが美味しいって聞いたんだ。もらってもいいかな?」 「もちろんです」 呉内さんを二人の席に案内し、ちょうど残り一つになったバームクーヘンを皿に乗せて、注文されたコーヒーをマグカップに注ぐ。  「お待たせしました」  皿とマグカップをトレーに乗せて運び、テーブルに並べる。代わりに空になった皿を二つ下げ、京斗さんと深月のマグカップに追加のコーヒーを注ぐ。   「理人、コーヒー淹れるのうまくなったね」 「そうか? まあ、はじめよりはマシになったかも」 「うん。深月の言う通り、すごく美味しいよ」  京斗さんにも褒められて思わず口の端が緩む。カウンターに戻ろうとして、呉内さんがこちらを見ていることに気がついた。ほかに何か注文するのかと思い、声をかけようとしたところで店のドアベルが鳴った。  入ってくるなり声が聞こえてきたので、誰が入店してきたのかはすぐにわかった。ドアの前に立っていたのは常連客の一人で、氷坂さんの古い友人だという五十代の男性だった。  アメリカで知り合ったとかで、今は日本で自営業をしながら、合間を縫っては氷坂さんに会いにここにやって来る。年齢を感じさせない、鍛えられた体は昔やっていたスポーツのおかげだとよく話してくれる。 「おお、今日は理人くんの日か。元気にしてたかい?」 「はい。すみません、氷坂さんは今休憩中で」 「いやいや、君に会えるのも嬉しいよ」 最近では俺の顔も覚えてくれたらしく、こうして気さくに話かけてくる。常連客が注文するメニューはだいたい決まっているので、男性をカウンター席に案内してから、コーヒーとデザートの準備にとりかかった。 それから二十分ほどして今度は縁の厚いメガネをかけた作家志望の男が来店し、そのすぐあとに子供でも知っているような有名企業の女社長が高校生の娘を連れてやって来た。   常連客が一人来店すると、まるで示し合わせたかのように次から次へと常連客が姿を見せる。忙しくなってきたことに気を遣ったのか、京斗さんがお会計のためにレジに来た。 「あ、今日は俺持ちで大丈夫ですよ。ケーキもコーヒーも勝手に出しましたし」 そもそも深月に恋人が出来たと思って祝うつもりだった。実際は恋人じゃなくて兄だったわけだが、あいつが一番会いたい人に会えたなら、それは誰だろうと祝ってやりたい。 「それはダメだよ。ここのコーヒーとバームクーヘンはとても美味しかった。ありがとう」 そう言うと京斗さんは三人分のお金を置いて席に戻って行った。あの人は昔から顔だけじゃなくてやることも言うこともかっこいい。 俺も深月ほどではないが、幼いころから京斗さんに憧れていた部分はあった。顔も良いし、頭も良いし、面倒見も良い。まさに理想の兄だと思う。だから深月が京斗さんとの再会をあそこまで喜んでいるのもわからなくはない。ときどき行き過ぎな部分もあるが。 会計を済ませた三人は席を立ち、出口に向かって行く。一応店員なので、俺も近くまでついて行って三人を見送る。こうして見ると三人兄弟みたいだなあ、なんて思いながら。 「理人、今日はありがとう。また大学で」 「ああ、また」 「理人くん、コーヒー美味しかったよ。また来てもいいかな?」 京斗さんの隣に立っている呉内さんの言葉に、俺はもちろんです、と力強く答えた。 男の俺から見てもきれいな顔立ちの呉内さんに、そんなふうに言われて嫌な気はしない。呉内さんならまた来て欲しいし、何より俺が淹れたコーヒーを美味しいと言ってくれたことが嬉しかった。 三人を見送ったあと、夕方とは打って変わって店内は満席状態になり、休憩から上がった氷坂さんと一緒に必死でお店を回した。 夜の十時に最後の客を見送り、カルラは静かに閉店した。 最後に残る客はだいたい決まっているので、いつものように世間話とまた明日から一日頑張りましょう、なんていう簡単な挨拶を済ませ、客の姿が見えなくなったところで店のドアを閉める。 氷坂さんがレジの締め作業をしている間に、溜まっていた食器を洗い、床にモップをかける。退勤するころには十時半を少し過ぎていた。ようやく終わった一日に思わずため息が出る。 おかげで家に帰るまで京斗さんが日本に帰ってきたことも、京斗さんの同僚の呉内さんのこともすっかり頭から抜け落ちていた。それどころか、店を出てからは今日の夜ご飯をどうするかということで頭がいっぱいだった。 運が良ければ余ったケーキを持って帰ったり、まかないを食べて帰ったりする日もあるが、今日の忙しさではケーキが余るはずもなく、残念ながらまかないが出ることもなかった。
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