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プロローグ
俺の人生はイージーモードだ。ただ与えられた世界に沿って楽しく生きていく。それに対して不満や不服はない。退屈だと思うこともない。それでよかった。
少なくとも今日までは。
本日最後の講義が終わり、筆記具を片付けて席を立つと、小柄な男が栗色の髪を揺らしながらドタドタと階段を降りてきた。周りの女の子たちがすれ違いざまに、可愛い、可愛いと小声で言い合っている。
「理人! 今からバイト?」
人懐っこい笑顔で俺の行く手を阻むこの男は、小学生のころから同じ学校に通っているいわゆる幼馴染みであり、男の俺から見てもイケメンである。
いや、こいつは、佐久間深月は可愛い系のイケメンというべきか。動物に例えると絶対犬だし、顔が小さいうえに目が大きく、背も低いので実年齢より若く見られることが多い。
「そうだけど、お前は?」
「俺は今日休み。だから理人のバイト先行っていい?」
もし深月に尻尾があったら、ぶんぶんと音が鳴るくらい振っているだろう。それくらい嬉しそうに笑っている。何かいいことでもあったのだろうか。
「いいよ。お前、あそこのコーヒー好きだもんな」
「それもある。けど、今日は会わせたい人がいるんだ」
深月が俺にこういう話をするのは、今回がはじめてではない。この場合、会うことになるのは間違いなく女の子だ。こいつのチャットのアイコンが俺とのツーショットで、それを見た女の子が深月に紹介して欲しいと頼むらしい。
これまでの経験から深月の知り合いの女の子はだいたい可愛いし、今のところ同じ学科に気になる子もいないのでちょうどいい。
講義室を出て学内を歩きながら、その会わせたい人がどんな人か聞いてみたが、それは会うまでの秘密だと言って教えてくれなかった。よほどの美女かそれとも芸能人の類だろうか。どちらにせよ会ってみないことにはわからないが、そう言われると気になってしまう。
「ま、楽しみにしてて。俺は一旦帰ってからそっちに行くから」
正門までたどり着いたところで足を止めてこちらに向き直ると、深月は花が咲いたように笑っていた。普段からよく笑うやつではあるが、このときの笑顔はいつも以上に楽しそうに見えた。
もしかして俺に女の子を紹介するのではなく、深月の彼女を紹介されるのだろうか。深月はモテるわりには恋人をつくらない。
小学生のころから知っているが、恋人ができたのはたったの二回。それも付き合って三カ月で別れている。理由はわかっているので、俺がアドバイスできることは何一つないのだが。
「わかった。じゃあ、あとでな」
深月と別れてそのままバイト先に向かう。今日の出勤は四時からなので、大学から直接店に向かえばちょうどいい時間になる。
昼過ぎということもあり、まだまだ外は明るく、小学生の集団やベービーカーを押しながら歩く主婦とすれ違う。ランドセルを背負った子どもたちは、昨日の雨で出てきた水たまりをジャンプして避けたり、落ちている小石を投げたりして遊んでいる。
その少し先を歩く中学生らしき三人組は、今月の修学旅行で好きな人に告白するしかしないかで盛り上がっている。
考えてみれば十八年という長いようで短い人生の中で、俺は苦労や挫折、そして人間関係で悩むという経験をしたことがなかった。彼女が途切れないくらいに顔は整っているし、勉強もできるので成績は小学生のころから常に学年で十位以内には入っていた。
バレンタインでチョコをもらえなかった年はないし、クリスマスや誕生日などのイベントは常に誰かと楽しく過ごしてきた。運動もそれなりにできるので、体育祭ではだいたいリレーのアンカーを任されていたし、学祭の模擬店で俺が客寄せをすれば、売り上げはうなぎのぼりだった。
ありがたいことに父親、母親ともに大学教授というエリート一家で、大学に進学するのに奨学金を借りる必要はなく、入学後はそこそこ優雅な一人暮らしが約束されていた。
それでもアルバイトをはじめたのは、生活のすべてを親の仕送りに頼るのは気が引けたからというのと、何より友達と遊ぶお金が欲しかったからだ。
ついでにもう一つ理由をあげると、大学に入学してすぐ、高校三年の冬に付き合った年下の彼女と別れてしまったので、少しでも女の子との関わりを増やしたかったからというのもある。バイトなら大学では知り合えない年齢層の女性とも関わりを持てるかもしれない、なんて淡い期待があった。
そんなわけで大学に入学して一ヶ月後に、家の近くにあるカルラという個人経営の喫茶店でアルバイトをはじめた。
カウンター五席にテーブル三席というこじんまりとした広さで、コーヒー好きのオーナーが厳選した豆を挽いたコーヒーと手作りケーキのセットが人気のお店である。
カルラで働きはじめて四ヶ月。アルバイトをしたのは生まれてはじめてだが、思いのほか楽しいし、店長が話しやすい人なので今後も人間関係において苦労することはないだろう。お客さんも常連客ばかりなので、気さくに話しかけてくる人が多い。
すべてにおいて恵まれた環境の中で、挫折や苦労を味わうことなんてない。人生において漠然とした不安を抱えたり、何かに怯えたりすることもない。
このまま充実した四年間を過ごし、一流企業に就職してある程度出世したら、同僚もしくは後輩の可愛い女の子と結婚する。まさに完璧を約束された人生。俺はただそれを謳歌するだけでいい。
ベビーカーに乗った赤ちゃんが泣きはじめ、母親が足を止めて抱っこし、静かになるまであやしている。その様子を見ていた小学生たちが駆け寄って声をかけている。
結婚するということはいつか俺にも子供ができるのだろうか。まだ結婚相手もいないのに、子供を見るとときどきそんなことを思う。
子供好きというわけではないが、好きな人との間にできた子ならきっと好きになるだろう。それもこれも、まだ本気で人を好きになったことがない俺にはよくわからない。
今まで付き合った女の子は、もちろんみんな好きだった。それは間違いない。嫌いなやつと付き合うほど心は広くないし、そこまで器用でもない。
でもその彼女たちに何があっても一緒にいたいと言われたら、俺はたぶん断るだろう。そこまでずっと誰かのそばにいたいとは思わないし、きっとそのうち気持ちが冷めてしまうだろうから。
本気で人を好きになり、結婚して子供を産む。それはいつかくるであろう未来の話であって、今の俺には考えられない。
「本気で人を好きになる、か」
あの笑顔から察するに、深月は本気で好きだと思える人に出会ったのかもしれない。ずっとそばにいたいと、将来は結婚してもいいと思えるほどの相手を見つけたのかもしれない。
それならそれで祝ってやらないとな。これまで彼女をつくっても三カ月しか続かなかったような男が、あんなに幸せそうに笑うんだから。
せっかくなら深月の好きなコーヒーとバームクーヘンでも奢ってやるか。可愛い顔して甘いものは苦手だと言うから、コーヒーは無糖だしデザートも甘くないものを好む。
カルラのバームクーヘンは甘くないので、簡単なお祝いとしてはいいだろう。まだ彼女が出来たと決まったわけじゃないが、幼いころからの友達として深月には幸せになって欲しいと思う。
前を歩く中学生たちは、修学旅行での一世一代の告白を決めたらしく、三人でお互いを励まし合っていた。
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