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*2 ガチ恋勢の週末
その日のライブは最後まで観られたけれど、翌日も早くに仕事だったので閉演後に行われる英登さんの音源が売られたりする物販には顔も出せずに帰るしかなかった。
終演後は上手くいけばそこで少しだけ英登さんと喋れる機会なのに……ああ、何で明日も平日なんだろう。
新曲の音源があったら真菜さんが確保しておいてあげるよ、と言ってくれたけれど、結局帰りの電車の中で新譜はなかったよと連絡が入りそのまま帰路につく。
自宅である小さなワンルームのマンションに帰り着くなり僕は手早くシャワーと着替えを済ませてベッドにもぐりこみ、そしてスマホを取り出してウェルカムズの動画配信チャンネルにアクセスをする。
さっきまで生演奏を見てきたけれど、配信用のチケットも購入しているので見ながら寝ようというわけだ。
英登さんが「新しい曲にチャレンジしてみた」と言っていた、今年はやっているポップスの弾き語りをしているシーンではその手許がズームアップされている。僕はスマホを食い入るように見つめ、出来ないとわかっていても指先でより詳細に見ようとしてしまう。
「はぁ……ほんっとカッコいい……」
溜め息が出るほどに、英登さんの指先も奏でられる音色もカッコいい。
いつだったか、ギターは女の人の体を模して作られている、なんて聞いたことがある。だから、ギターを奏でている手つきは妙に色気を感じるんだろうか。
そんなことを思いながらも、一方で僕は自分がその模しているものにすらなれない現実を突きつけられて絶望したりもした。ああ、僕は模ったものになって触れてすらもらえないんだな、と。
だからせめて、こうして繰り返し映像を眺めるくらいいいじゃないかと思うんだ。推しである彼と、同性でありながらガチで恋している僕が結ばれることなんて万に一つもないのだから。
自分の置かれている現実をわかっているからこそ、僕はただひと時の夢を見る。
「夢でもいいから、あの手に触れられたらいいのにな……」
しっとりとしたナンバーを奏でながらステージライトに照らされている英登さんの姿を、手のひらの小さな画面の中に見つめて呟くしか僕には許されていない。それが現実。
英登さんのライブがその週の木曜日の夜だったので、眠い目をこすりながら金曜日の朝を乗り越え、いつもどおりハードで容赦のない昼を乗り越え、夜の六時を過ぎる頃にはすっかりくたくたになっていた。
「拓海先生、今日この後ごはん食べに行かない?」
一日の仕事をようやく終えて着替えて門のところで通勤用の自転車を出していると、同僚のあいり先生に声を掛けられた。
僕が男なのに同僚の先生(女性)たちにガツガツ来ないのが好印象らしく、時々こうして退勤後に食事に誘われることもある。
僕がガツガツ来ないのは女の人に興味がなくて男の方が好きだからなんだけれど、向こうはどう思っているのか正直わかりかねるのでこういう時ちょっと困る。単純に同僚として誘われているのか、下心とやらがあるのか。
だから誘われても五回に一回、それも複数の先生たちと一緒にという条件でならご飯だけ食べに行くこともなくはない。いらぬ疑いはかけられたくないからね。
でも、今日はそれもしない。何故なら――
「ごめんなさい、今日は推しが待ってるんで!」
昨今推しというものの概念が一般的になっているおかげで、妙な嘘を考えて断らなくてもよくなってきたのが有難い。嘘偽りなく、僕は今日もこの前のライブの配信動画を見ながら夜のひと時を過ごすつもりだからだ。
あいり先生は僕の推しが英登さんという男性ギタリストであることはたぶん知らないだろうけれど、推しのために同僚の誘いも断るヲタク勢であることは承知しているようで、僕の断りの言葉にいやな顔せずに苦笑してうなずいてくれた。
「推しかぁ、じゃあ仕方ないね。また今度!」
年齢が比較的近いあいり先生だから理解が早かったのかもしれないけれど、なんにせよ今日もちゃんと英登さんの雄姿が拝めそうでひと安心だ。
そうして僕はあいり先生と別れ、帰路について自転車をこぎ始める。晩秋の夜の始まりの風が頬を撫でていくのすら心地よく思えるほど、僕は動画が楽しみで仕方ない。もうあれから三日で十回は見ているのに。
途中のコンビニで晩酌用のチューハイとビール、晩ごはん代わりのつまみにホットスナックの唐揚げや野菜スティックを買い込んで、僕は帰り着いた部屋でいそいそと週末のひと時の準備をする。
今日は明日が休みの週末なので、スマホの小さい画面ではなくて壁掛けの大きなモニターに映し出してみることにした。
「はぁ~……最ッ高……」
スマホよりも大きな画面いっぱいに映し出される英登さんの姿は、毎回ライブのたびに配信チケットを買って、休みの前の日はこうして大きく映し出しているのに、そのたびにうっとりしてしまう。
スマホとのスピーカーの違いから音も格段に良くなったこともあって、より演奏の世界に浸ることができるのも大きいだろう。ただ、深夜になるので音はヘッドホンをして、だけれど。
より配信などの映像での音を高音質で聞こうと思って最近ヘッドホンを奮発したのだけれど、これがまた大正解だ。高音質な上に大音量なのでトークの内容も吐息さえも聞こえてきそうですごくドキドキしてしまう。
そしてより一層、画面に映し出されている美しい指先を求めてしまう。
「ああ……せめて、思う存分握手してみたいなぁ……」
握手は、いままでに何度かしてもらえる機会があるにはあった。物販の時に音源を購入して、サインまでしてもらって、思い切って握手をお願いしたことがある。
英登さんの手のひらは大きくて、指先はギタリストらしく皮が硬い。でもざらざらしているなんてことはなくて、ちょっと触れただけだけどすごく大切に手入れされているのがわかる。
手や指は英登さんの大切な商売道具であって、僕が欲してしまう観賞物ではない。鑑賞物みたいにはしているけれど。
だから、たとえ映像を観ていて股間が疼きそうになっても、僕はぐっとこらえる。欲してはいるけれど、欲情してしまったらそれは英登さんを欲望のはけ口として穢してしまうことになるからだ。
英登さんは、あくまで僕の推し。ものすごく好きだし、触れられたくてたまらないけれど……正直、触れられるところを想像して自慰をしたこともなくはないけれど、絶対にライブなどの演奏の映像を観ながら、はしないと決めている。それだけは、絶対に。
そうでないと、僕はご本人を前にして正気をいままで通り保てるかわからないからだ。それぐらい、僕は彼の指先が好きでたまらないのだ。
ギターネックを滑り、弦を押さえ、弾く。その指先でそうするように、僕の頬や耳や胸元それから――言えないようなところにも触れて欲しい。それができたなら死んでもいい……そんなことを考えてしまう。
ライブ映像が終演になり、画面が一転暗くなってそこにはさっきまで映し出されていた雄姿に喰いつくように見入っていたみっともない姿の僕がぼうっと映っている。
それが無性に恥ずかしくて情けなくて、僕はとっさに目を反らしてローテーブルに置いていたビールの残りを煽るように飲み干した。
結局その日は深夜の一時過ぎまで動画を繰り返し見てしまい、用意していたビールもチューハイも飲み干してちょっと酔っぱらった。
ふわふわとした心地で見つめる英登さんの姿はより一層きらきらして見えて、ほんの一瞬だけカメラの方を向いて微笑んだ姿が延々と脳裏に焼き付いて離れない。
「今日こそ夢の中で会えたらいいのになぁ~……なんてねぇ……」
そんな虚しい独り言に自分で笑えるほどに酔いが回っていたので、僕はモニターの前でクッションを枕に寝転がり、画面の中でギターを奏でている英登さんの姿を見つめながらうつらうつらと眠りの中へと落ちていった。
子守唄よりも優しく聴覚を刺激するギターの音色はすぐに僕に安眠を連れてきて、深くふかくやわらかな夢の世界へいざなっていく。
(……ああ、まるで本当に英登さんに頭撫でられているみたいだ……)
そんなことを思うくらいに、この日の眠りはとても心地よく、憶えていなくてもいい夢を見られたことは確かだった。
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