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第15話・弁当
『おはようございます、仕事頑張ってください』
「おはようございます、体調に気をつけて勉強頑張ってください」
ピースサインをしたくまのスタンプ。
『お疲れ様です、授業終わりました』
「お疲れ様です、帰ってからも勉強かな、無理はしないでくださいね」
ありがとうのスタンプ。
「おやすみなさい、また明日」
おやすみなさいのスタンプ。
『おやすみなさい、よい夢を』
くまがぺこりとお辞儀をしているスタンプ。
挨拶とスタンプだけのやり取り。だがそれは思った以上に私自身の精神安定剤となっていた。
もちろん、勤務形態によっては決まった時間に連絡できないこともある。その点に関しては、さすが入院慣れしているだけあって、私の仕事に理解のある霧川さんだった。
できる範囲で同じ時間帯に同じやり取りをする日々。私たちの夏はそうして進んでいった。
そんな穏やかな日々を変えようとしたのは、霧川さんだった。
『明日、診察なので病院に行きます。千家さん、日勤でしょ?』
ようやく猛暑が落ち着き始めた9月半ば、挨拶以外のメッセージが届いた。
「はい。明日は日勤です」
『診察のあと、久しぶりに会いたいです。昼休みに合わせます。ってか、診察終わっても会えるまでずっと待ってます』
「そんなの、悪いです」
『検査の結果が悪かったらなぐさめてほしいんだけど』
いいように掌の上で踊らされていることはわかっていた。だが、私も久しぶりに会いたかったのだ。
──春彦の心臓に。
「検査の結果が悪いことはまずないでしょう。では、昼休み──」
入力しているうちに、昼休みのあわただしい時間にとどめておくのは惜しく感じた。さっきの文章を消去して、新たに入力し直す。
「昼休みはあわただしいので、もしよければ、明後日が休みなので夕飯を一緒にどうですか? 検査結果がよかったらお祝いをしましょう」
しばらく間が空いたので、さっきのメッセージは気にしないでほしいと入力しようとした。だが。
『嬉しい! 検査頑張るので、僕のわがまま聞いてください! 手料理をごちそうしてほしいです!』
*
「わぁ、美味しそう!」
霧川さんが、持参した弁当箱のふたを取って顔を輝かせる。
「よかった。いっぱい食べてくださいね」
「はい、いただきます!」
嬉しそうに食べ始めた霧川さんに続き、私も箸を取る。
さすがに春彦の遺影があるアパートに霧川さんを招く気にはなれず、弁当を作って押しかけるような形で、今私は霧川さんのマンションにいる。しばらく実家に帰っていた霧川さんだが、検査結果を受けて1人暮らしのマンションに戻っている。
広くはないがこぎれいに整頓された部屋は、とても居心地がいい。ただ、パソコンのある勉強スペースだと思われる一角だけは乱雑で、どこか春彦の部屋を思い出させた。
弁当作りには気合を入れた。他人にふるまうことが久しぶりだったこともあるが、霧川さんに気に入ってもらいたかったのかもしれない。
鶏のから揚げにはひと手間加えて油淋鶏風にし、卵焼きにはじゃこと青ねぎを加えた。きんぴらごぼうかひじき煮かで迷ったが、春彦が好きだったきんぴらごぼうを選んだ。ミニトマトやブロッコリーは春彦が嫌がったので、今回も入れないでいた。さらに鮭の塩焼きに、ポン酢で味つけをした小松菜の卵とじ炒め。
全て春彦が好きだったおかずだが、霧川さんの心臓が喜んでくれればいい。そう思ってしまった私は不誠実なのだろうか。
「それにしても、検査結果がよかったので、私もほっとしました」
「結果がいいのは、僕もわかってたので。だって、退院してからすごく調子がいいし」
「それって、私のことをからかって……」
いたずらな笑みを浮かべて、霧川さんは言う。
「だって、会いたかったから」
10歳も年下の男性相手に、心を持っていかれそうになる。それは霧川さんの中に春彦がいるせいだろうか、それとも──。
「からかわないでください」
一瞬しゅんとした表情を見せた霧川さんは、小松菜を食べて驚いたような表情を浮かべた。目まぐるしい表情の変化だ。
「この味!」
「ポン酢で味つけしたんですけど……」
「この味つけ、好きなんですよねぇ」
「私のも、食べますか?」
「うん。ほしい」
懐かしいような寂しいような嬉しいような複雑な感情。だが、嬉しい感情が少しだけ上回っているのを自覚する。私は自分の分の小松菜を霧川さんの弁当箱に入れた。
*
「はぁ。お腹いっぱい。美味しかった~」
「喜んでもらえてよかった……」
霧川さんは全部のおかずを美味しいと言って食べてくれた。私も、自分の作った料理でこんなに喜んでもらえたのは久しぶりだった。
ダイニングテーブルに置いている薬袋から大量の薬を取り出し、霧川さんが飲む。心臓移植後の患者は、免疫抑制剤など大量の薬が必要になる。
「薬を飲むためだったんですよ。これまで僕にとって食べることって」
移植前は塩分や水分の量を厳格に制限された食生活を強いられていた。移植後は普通の食生活ができるようになったが、それでも気をつけなければならない点は多い。
「でも、今日は生まれて初めて、料理が美味しかった……」
「そっか……」
胸がきゅっと縮む。私は今、霧川真昼という男性が初めて心の中に入り込んできたことを感じた。春彦の心臓を移植してもらった患者の霧川さんではなく、私にとって尊い存在の霧川真昼さん。
霧川さんが唐突に胸を押さえる。
「大丈夫ですか?」
「ううん、そうじゃなくて。ドキドキしてるんですけど、苦しいんですけど、病気の頃とは違ってて……。これが、恋っていうやつなのかな……」
「恋……」
「僕、千家さんが好きです」
苦しそうにしながらもまっすぐに私を見つめる霧川さん。その瞬間、私も恋に落ちたのを自覚した。
私はダイニングの椅子から立ち上がって霧川さんの真横に立つ。そして、立ったまま彼をそっと抱きしめた。
きっと、私の心臓も霧川さんと同じようにドキドキしていた。
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