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第17話・キーマカレーとナン
2023年3月11日。春彦の命日であり、真昼が生まれ変わった日。
本来ならば、アパートで静かに春彦を偲ぶべきだろう。だが真昼が春彦であることをほぼ確信している今、遺影はただの写真でしかない。私は真昼と過ごすことを選んだ。
さらに、奇しくも今日は真昼が受験した大学の合格発表日でもあったので、私は夜勤明けの身体でそのまま彼のマンションに来た。
「真弓さん、疲れてるでしょ。ちょっと寝たら?」
そんなことを真昼は言うが、ダイニングテーブルに置かれたのはホットコーヒー。
「さては寝かせないつもりね」
「あっ、ごめん……」
どうやら本当に間違えたらしい。私はありがたくカップに口をつける。ほろ苦い香りが疲れた身体に沁みる。
「真昼こそ、落ち着いて。試験、ちゃんとできたんでしょう?」
「一応ね。でもやっぱり緊張する」
現在午前10時40分。11時にオンライン上で合否がわかる。緊張すると言いながら落ち着きなく部屋をうろうろする真昼。そんな姿を見ていると、私まで落ち着かなくなる。
私は立ち上がり、部屋の一角に置いた小さな2人がけソファに真昼を誘った。これは冬のボーナスで私が買ったものだ。
並んで座り、私は真昼の左手を握った。真昼と並んで歩いたり座ったりする時には、私はいつも心臓のある左側にいる。
「真昼が頑張ってきたのは、私がちゃんと知ってるから」
「真弓さんがいてくれなかったら、僕、ここまで頑張れなかったかも」
「ううん、真昼は1人でもちゃんと頑張れたはず。でも、私がいるからもっと頑張れたんだよ」
「結局、自分上げ?」
「それが何か?」
くすっと真昼が笑ってくれ、少し緊張がほぐれたのだと安心する。
「そろそろ、スタンバイする」
真昼が立ち上がり、デスクのところに移動してパソコンを起動させる。
「真弓さん、そばにいて」
「わかった」
大学のウェブサイトを開き、合格発表のページにアクセスして受験番号を入力する。
そして11時になった時──。
*
「乾杯!」
マンゴーラッシーのグラスがぶつかり合う。一口ストローで飲むと、甘酸っぱい香りが広がった。
注文していたカレーのセットも運ばれてきた。私は月替わりのザグカレーで、真昼はキーマカレー。顔より大きいナンと野菜サラダがセットになっている。
真昼の合格祝いを兼ねて、私たちはインドカレーの店に来ていた。春彦と行きつけだった店だ。ここのキーマカレーが好きだった春彦をねぎらう目的が少なからずあったことは、否めない。
「お祝いありがとね、真弓さん。外食なんて嬉しすぎる」
闘病していた頃は厳しい食事制限のために外食したことがなかった真昼が喜んでいる。その顔を見られただけでも、連れてきた甲斐がある。
相変わらずここのカレーは美味しい。深い緑色をしたザグカレーには鶏肉がごろごろ入っていて、辛さの中にもまろやかさを感じる。ナンは甘みがあってもっちりしている。
真昼も美味しそうにキーマカレーを食べていたが、ふと顔を上げた。
「僕、キーマカレーもナンも食べたことがないはずなのに、あぁこういう味だったなぁっていう感じがする」
「そうなの?」
それには答えず、真昼は神妙な顔つきになった。
「今日だったんだよ。僕が心臓移植の手術を受けたの」
「うん、そうだったね」
「えっ、真弓さんそんな細かい日づけまで知ってるの?」
「あっ。カルテ……見て、覚えてたんだっけ。うん、きっとそう」
まさか真昼に春彦のことを言えるわけがない。慌ててごまかした。
「それより、キーマカレーの……記憶があるの?」
思い切ってそう尋ねてみると、真昼は少し考え込むようなしぐさを見せた。
「うーん。記憶ってほどじゃないんだけど、何かしっくりくる感じ?」
「しっくりくるの?」
「うん。こういうことがほかにもたくさんあって、僕なりに考えてみたんだけど、やっぱり生まれ変わったとしか思えないんだよね」
移植前よりも好きなことやものが増えたのだという。もちろん元気になっていろいろな物事に興味を持つようになったからだともいえる。だが、私にとってもやはり生まれ変わったという方がしっくりくる。
真昼が左胸に手を当てる。
「だから、僕はこの心臓に本当に感謝してるんだ。楽しいことをいっぱい教えてくれてありがとう、真弓さんと出会わせてくれてありがとうって」
「うん」
「そっけないなぁ」
「だって……嬉しすぎて言葉が見つからなくて……」
目の前がじんわりとぼやけてくる。何か気の利いたことを言いたいのに言葉が出てこない。
「じゃあ、僕が言うからちゃんと聞いてね」
それはまさに、何か重大な決断をした時の春彦のような口調だった。私はうなずいた。
「真弓さん、本格的に僕と一緒に暮らそう」
「はい」
かろうじて出た声はかすれていた。
*
翌日から真昼のマンションに引っ越すための荷物整理を始めた。といっても、このアパートに越してくる時にほとんどの荷物を処分したので、それほど大変な作業ではない。
「あれ? 何かここ引っかかってる」
春彦の遺影を置いている棚の整理をしようと、引き出しを開けようも何かが引っかかった。手を入れてそれを取り出すと封筒だった。ちょうど高校時代に流行った「テラたん」というヒョウモントカゲモドキのキャラクターのイラストが描かれている。
「見覚えないけど、ずっと引っかかってたんだろうね」
中に厚みのあるものが入っているようだったので、何かの拍子で引っかかったのだろう。封を開けて中身を取り出すと、便箋とおもちゃの指輪が出てきた。
「何、これ……」
便箋を広げる。右下にテラたんのイラストがあり、テラたんが話す大きな吹き出しの中が、文章を書くスペースになっていた。
『真弓へ
君と会えなくなって幾分経つだろう。時々君の仕草を思い出して涙が出る事がある。たぶんそれは僕の中に君がいるからなんだと思う。
真弓……また会えるかな。会いたい……。
今度また……生まれ変わって会えたら、2人でくじ引きをしよう。君の欲しがったくまさんのぬいぐるみが出るまで全部くじを引こう。
君の手の感触が今でも忘れられない。こんなに君の事を愛していた自分に驚いている。
真弓、愛しているよ。ずっと一緒にいような……』
最後に春彦の署名があった。
これはいったいどういうことなのだろう。高校時代に流行ったテラたんの便箋。だが、そこに春彦の右肩上がりの筆跡で書かれた思い出は、真昼とのものだ。
──やっぱり、春彦くんは生まれ変わって私に会いに来てくれたんだ……。だから私は真昼とくじ引きをしてぬいぐるみが当たったんだ……。
もうそれがいつ書かれたとか、書かれている内容がどうだとか、そういうのはどうでもよかった。春彦が私だけを愛して、真昼として生まれ変わって、また出会うことができた。
──真昼はやっぱり春彦くん……。
ようやく確信にたどり着いた。涙がぽろぽろとこぼれる。大切な便箋が涙で濡れないように、春彦の遺影の前に置いた。
「やっと、気づいてくれたね、真弓。これからも、ずっと一緒にいような……」
耳元で春彦の声がはっきりと聞こえた。私を包む空気がふわっと温かくなる。
私は春彦の気配に抱きしめられながら、時間を忘れて温かい涙を流し続けた。
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