第1話・きつねうどん

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第1話・きつねうどん

 申し送りを終えて更衣室に戻った私は、看護師用のスクラブを脱ぎ、私服に着替える。ロッカーに備えつけられた小さな鏡で顔を見ると、目の下に濃いくまができていた。化粧直しをしようかと思ったが、面倒だった。 ──どうせ、春彦くんにはわからないものね……。  私は小さなため息をついてロッカーの扉を閉じた。  夜勤の明けた午前9時、向かう先は脳外科病棟。一番奥の個室に春彦がいる。  春彦を襲った突然の病気から約1か月。9月を迎えたが暑さが落ち着く気配は一向になく、私はあの日の悪夢を引きずったまま、日々をたどっていた。仕事だけはちゃんとできているという自覚だけが、唯一の心の支えだった。  個室の引き戸を開き、春彦が眠るベッドに近づく。仕事の癖でついモニターの数値をチェックしてしまい、思わず苦笑した。意識がない以外数値は安定していたので、ほっとする。  椅子に腰をかけて、私は春彦の手を握る。そして、そっと声をかける。 「春彦くん、おはよう。さっき、夜勤が終わったよ」  意識はなくとも、耳は聞こえているという。だから私は、仕事以外の時はできるだけここに通って、春彦に話しかけ続けていた。意識が戻る可能性が著しく低いことは受け入れているつもりだが、ほんの少しでも可能性が残されているならば、そこにかけてみたいと思っている。  春彦の規則的な呼吸に合わせて、口元を覆っている酸素マスクが曇ったりクリアになったりするのをぼんやりと見つめる。この1か月間で、髪も少し伸びたようだ。 「ねぇ、9月だよ。あのお店、今月の限定メニューはきのことチキンのカレーだって。でも、春彦くんはいつもキーマしか食べないもんね」  行きつけのインドカレーの店。私は月替わりのメニューを試してみるが、春彦は定番のキーマカレーしか食べない。 「映画、いよいよ来週公開だよ。私ひとりでも観に行っちゃうし、ネタバレするよ? ここで全部言っちゃうけど、怒らないでね」  来週は、前々からふたりで楽しみにしていた映画の公開だ。ホラーにかこつけて、私は春彦の腕をつかんでしまおうと画策していたのに。  春彦の髪をなでる。入院着の胸元から伸びているコード類や点滴に気をつけ、そのまま身体に覆いかぶさるようにして抱きつく。そして胸にすがる。 「ねぇ、春彦くん。いったい、いつまで寝てんのよ……。早く起きてよ……」  だが、力強い心臓の鼓動をこの耳で受け止め、私は小さく安堵した。 * 「──弓。真弓ったら」  名前を呼ばれて軽く肩をゆすられ、私はハッと気がついた。いつの間にか寝入っていたようだ。顔を上げてモニターで春彦の数値を確認すると、正常でほっとする。 「真弓まで身体壊したらどうすんのよ」  春彦の点滴を交換しに来たらしい先輩看護師の山西恭子さんが、腰に手をやって私の顔を覗き込んだ。  脳外科勤務の恭子さんに対し、消化器内科勤務の私。今でこそ別々の診療科で働いているが、新人の頃はとてもお世話になった。今でも恩人のような先輩だ。 「それにしても真弓、ひっどい顔」 「恭子さん、ひどい……」 「ちゃんと食べてる?」 「えぇ、まぁ……」  私はあいまいにうなずく。  そう言えば、春彦が倒れたあの日から食欲がない。もちろんお腹は空くから食事はするが、味覚がうまく機能しなくなっていた。それに加えて、この1か月間何を食べて過ごしていたのかの記憶さえあいまいだった。 「あたし、もうすぐ昼休みなんだ。おごるから、何でも好きなもの食べなさい」 「はぁい……」 *  とはいえ食欲が回復することはなく、私は昼休みの恭子さんと食堂で向かい合い、無理やりきつねうどんをすすっていた。 d7c7a715-f473-489e-862f-dc8ea5e8d25a 「別に、わざわざ一番安いものを選ばなくてもいいのに」 「いえ、あんまり食欲なくて……」 「まぁ、旦那があんな状態だものね。無理はないか」  恭子さんはそのやせ型の体型からは想像できないほどよく食べる。今日はかつ丼とミニサイズのおろしそばを頬張っている。 「ってか、真弓んち、まだ新婚さんだっけ?」 「4年目です」 「あー、4年目。あたし、その頃旦那に浮気されたわ。思い出したくもない過去よ」  自虐的に言う恭子さんを見て、思わずくすっと笑ってしまった。 「こら、笑うな」 「すいません。でも、だって、思い出したくないのに、自分で言うから……」 「そりゃそうだ。まぁいいわ。……ってか千家さんって……」  かつ丼を頬張っていた恭子さんが箸を止め、千家という私の苗字をつぶやいて宙を仰ぐ。 「あの時の患者さんか……。4、5年前の……」 「はい。あの時骨折で入院してた……」 「やっぱそうだ。珍しい苗字だから、何か覚えていたんだよね」  私と春彦は確かに同級生だが、4年前にこの病院で再会するまでは友達同士だった。  高校を卒業後、それぞれ違う進路に進んだ私たちは、小夜子の事件もあっていっとき疎遠になっていた。だが、春彦が仕事中の事故で骨折をして入院してきたことによって、私たちは男女の関係を意識するようになった。そして退院後まもなく一緒に住むようになり、入籍までも早かった。  その時恭子さんはほかの診療科だったので、春彦とは面識がなかったはずだ。それにもかかわらず記憶に残っているということは、珍しい苗字の印象がよほど強かったからだろう。  ふと、不安な気持ちが言葉になって漏れる。 「春彦、もう4年前みたいに、元気になって退院できないのかな……」 「何言ってんのよ。嫁が旦那のことを信じなくて、誰が信じるのよ」 「そう……ですよね……」 「じゃあ、無理してでもきつねうどんは食べなさい。で、また旦那のとこに行くなら、ちゃんと化粧直しをすること!」 「はい」  恭子さんは最後におろしそばのつゆを豪快にすすったあと、潔く席を立った。残った私は、きつねうどんをすする。さっきよりも美味しく感じられたきつねうどんを、私は残さず食べることができた。 *  恭子さんの言いつけ通り化粧直しをしてから春彦のところに戻る。 「春彦くん、ただいま。お昼ご飯食べてきた。ちょっとだけ美味しかったよ。あっ、そうだ。カレーうどんもいいかもね。今度、レシピ調べて作ってみようかな」  春彦の手を握る。相変わらず何の反応もない。 「でも、あったかい。生きてるってことだよね……」  そうつぶやくと、春彦のまつげが揺れたような気がした。  今はそれだけでいいような気がした。
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