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エピローグ・始まりの終わり
白い部屋の白い天井、そして点滴の薬剤。それが、今の私の視界に入る主なものだ。真昼には迷惑をかけまいと選んだ終の棲家。
というのも、私よりも10歳も若い真昼は、今年43歳の誕生日を迎える。まだまだ真昼には仕事も自由もある。私の介護なんかで、一番脂の乗った時期を無駄に過ごしてほしくはない。
そう思って、私は終の棲家であるこの緩和ケア病棟に入院したというのに──。
「真弓さん。今日も一日頑張ったね」
「真弓さん。明日はちょっとだけあったかくなるみたい」
「真弓さん。桜の開花予想っていつから出るんだろう」
真昼は仕事の合間を縫って毎日私に会いに来てくれ、泣き出しそうな声でそんなことを言う。
約1年前に病気が見つかった。手術を受けて一度は寛解したものの、すぐに再発が見られた。2度目の手術を受けたが、私を襲った病気は力を弱めることはなかった。今や全身にその病魔は広がっている。もう完治は望めず、今は麻薬で何とか痛みを抑えている段階だ。
それがどういう状況を意味するかは、かつてこの緩和ケア病棟に勤務していたことがあるから知っている。
私はとっくに死を受け入れている。だから、そんなに悲しそうな顔をしないで──。私は声にならない声で、真昼に訴えかける。
だが、一方で、まだ私を引き留める力があった。それは──。
──遠い昔、春彦と見られなかった最後の桜を、真昼と見たい……。
そこまで考えた時、私の意識はいつも薬によって途絶える。
*
はっと気がついた時、私をのぞき込んでいたのは真昼と恭子さんだった。
「恭子さん、真弓さんが!」
「真弓、わかる?」
私はかろうじて言葉をひねり出した。
「桜……まだ咲いて……ます……か……」
もうほとんど力の残っていない私は、恭子さんの助けを借りて何とか車椅子に座ることができた。だが、珍しく意識が鮮明なのは、その時が近づいているからなのだろうか。
*
真昼が連れてきてくれたのは、病院の外だった。服装も入院着に上着を羽織っただけで、薬の副作用ですっかり抜けてしまった頭髪にニット帽をかぶった私は、見た目も悪いだろうに。それなのに、デートのような気分でいたのは、まだ真昼が私を愛してくれているからだろうか。
「真弓さん。ここの桜、こんなに大きくなったんだよ」
真昼の言葉に顔を上げると、お地蔵さんのそばに桜の幼木があった。幼木ながら立派に花を咲かせている桜。
唐突に、この感触に既視感を覚えた。
──いつか、私はこうして車椅子を春彦に押してもらってた……。
それはとても懐かしい記憶だった。もしかしたら、薬の作用が見せる妄想かもしれない。だが、この胸に残る、春彦との温かい思い出……。
「春彦……?」
車椅子の背後で、はっと息を飲む気配があった。直後、首に回る温かな腕の記憶。
「真弓……。僕は、春彦だよ」
私は、最後の力を振り絞ってその腕をぎゅっと握る。
「春彦……。ずっと、会いたかった。でも、ずっと、私のそばにいてくれたんだよね……」
「うん、僕は、ずっと真弓のそばにいたよ」
やっと、春彦と言葉が交わせたのに。だが、私に残された時間はもうあとわずかだ。
「ごめんね……。でも私、もうだめみたい……」
まだ私の中に涙を流せる力が残っていたのかと驚愕する。もうとっくに枯れていたはずの水分が、どんどん目からあふれてくる。
「大丈夫」
そう春彦が言った。
「今度は、僕が真弓を看取る番だから。だから、大丈夫。安心して」
「ありがと……」
それから春彦は昔話をしてくれた。耳元で優しく響く、誰よりも愛おしい春彦の声。
「初めて真弓に会った時、『うわー、こいつ真面目かよ』って思ったんだよね」
それは、高校時代に初めて出会った時のこと。確かに私は真面目な優等生だったかもしれない。
「だけどさ、真弓は正義感が強くて、小夜子のことで心を痛めてた。僕はちゃんと知ってたんだから」
同級生の南小夜子が屋上から飛び降りた時は、本当に心が痛んだ。
「それからしばらく離れたけど、また会えて嬉しかったなぁ」
骨折した春彦が私の勤める病院に入院してきた時の話だ。そこから一気に2人の関係が縮まった。
「ごめんね。結婚してからはゲームばかりだった」
確かに、ゲーム配信者の春彦とはすれ違いも多かった。だが、私は春彦と一緒に暮らせるだけで幸せだった。
「でも、真弓のご飯は美味しかったなぁ……」
春彦のために作る料理は楽しく、また一緒に食べる料理はとても美味しかった。
しだいに意識が薄れていく。見上げていた桜が、どんどん色あせていく。
「真弓。最初の時、僕を看取ってくれてありがとう。だから僕は安心して逝けたよ」
ふいに入ってきたその言葉だけは鮮明で、私は何とか言葉を返したかった。
「つらかった……でも……春彦が真昼になって……」
「うん。僕は真昼で、真昼は僕だよ」
「そっか……。よかった……私の妄想じゃなくて……」
力にならない力で、春彦の腕にしがみつく。淡い春の空に、桜吹雪が舞う。
「僕は嬉しかったよ。真昼になってまた真弓に会えて、一緒にいろんなところに行ったね。真弓の料理もたくさん食べて、本当に幸せだった……」
涙声の春彦に、もう返事をする気力は残っていない。だが──。
──幸せだったよ……私も……。
最後にぎゅっと握った春彦の腕。
そこから先の記憶はない。だが、私は確かに春彦の言葉を胸に新たな世界へ旅立った。
──春彦くん。これからもずっと一緒にいようね……。
<了>
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