第3話・キーマカレーおにぎり

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第3話・キーマカレーおにぎり

「春彦くん、ちょっと体勢変えるね」  私は、春彦の身体を仰向けから横向けに動かす。 「ちょっと真弓! 何度言ったらわかるの!」 「えっ?」  先輩看護師の恭子さんの厳しい指示が飛ぶ。 「前にも言ったよね。それじゃあ不完全なの」 「あっ」  私は春彦の身体をさっきよりも深く前方に押し出す。 「これでいいでしょうか?」 「うん。よくできました」  相変わらず春彦の意識が戻ることはない。だが、体位を変えることによって心なしか頬に赤みがさしているように思えた。 「恭子さん。春彦、これで気持ちいいって思ってくれてますかね……」 「わからないわよ、そんなこと。だって、私たちは習ったことを忠実にこなしているだけだし」  現実主義というかベテラン看護師の経験というか、恭子さんの言葉はいつも厳しい。 「でもさ、真弓」 「はい」 「旦那の表情をよく見てみ? さっきよりちょっとだけ穏やかになったような気がしない?」 「それ、私もさっき思いました」 「さすが。真弓はいいお嫁ちゃんだねぇ」  確かに、仰向けに寝かされていた時の春彦は、少し苦しいというか何かを訴えかけるような表情をしていた。だが体位を交換した今は、とげとげしさがなくなっているように思えた。 「あたしさ、動けない、意識のない患者さんのお世話をしていて確信したことがあるの」  私は、ぽつりとそう言う恭子さんの瞳をのぞき込む。 「意識がなくたってさ、苦しいとか気持ちがいいとか、そういうのはわかっているのかなって」 「春彦も……そう思ってるのかな……」 「そこまでは、あたしにもわかんない。……でも、聞けたらいいね、旦那が回復したら」  恭子さんの言葉は看護師の先輩としてのリアルであり、夢物語のようだった。 「まぁ、過分な期待は……」 「……わかってます。私も看護師ですから」  恭子さんは私をそっと抱きしめてくれてから、病室を出た。それからも私は春彦に言葉がけをしながら、筋肉をほぐすようにマッサージを続けた。 *  一方通行の語りかけと働きかけはいびつだったが、どこが充実感さえ覚えるようになっていた12月。そんな中、勤務中にふと鳴った院内専用に支給されたスマホ。業務連絡だと思い込んで悠長に出たが、通話相手の恭子さんの声は硬かった。 『旦那が急変した』  持ち場である消化器内科の師長にはかろうじて断りを入れた記憶がある。そこからどうやって脳外科病棟へ向かったのか、次の記憶は恭子さんの腕のぬくもりだった。  私は恭子さんに支えられて、手術室前の椅子に腰をかける。 「どうして……?」  春彦は再出血を起こし、今は緊急手術中だ。  さっき、担当医からの説明も受けた。何とか手術が成功しても、残された希望はほぼゼロになったという。そして、これから起こりうる事態への説明も同時に受け、その時にどうするか考えておくようにとも言われた。  それはとても厳しい話だった。恭子さんがつき添ってくれなければ、私はまともに説明を聞くことができなかっただろう。 「でも、強い人だよ、旦那は。一生懸命頑張ってるよ」  泣きじゃくる私を、恭子さんは強く抱きしめてくれる。そして最後にこう言った。 「大切な嫁の、真弓のためにね」  ほかの患者のところに行かなければならないからと、恭子さんは病棟に戻った。  残った私は手術中であることを示す赤いランプをぼんやりと眺めながら、聞いたばかりの担当医の話を脳内で思い返す。  手術後──難しい手術が無事に成功したあと、とりあえずは気管挿管による呼吸管理と点滴による栄養補給で命をつなぐことになるが、いずれ気管切開や胃ろうも考えないといけない。何も考えたくないからと先延ばしにしていい話ではないし、悠長に構えていい状況ではない。  同級生の私たちはお互い28歳。まだまだこの先にはたくさんの未来があるのだと信じて疑わなかった。いつか子どもを持ちたいと思っていたし、行きたいと話をしていたものの行ったことのない場所が多すぎる。  そのほとんどは、いつでもできるからといつも後回しにしていたささいな出来事だ。 ──どうしてあの日、小松菜を買わなかったんだろう。  春彦が一度目の脳出血を起こした3日ほど前。一緒に買い物に行ったが、例のおかずを春彦からねだられたにもかかわらず、高いからと小松菜を買わなかった。季節外れの小松菜とはいえたった数十円の違いなのに、買って卵と炒めたらよかった。 ──どうしてあの日、一緒に満月を見なかったんだろう。  7月のある日、日勤から帰るなり春彦が一緒に満月を見ようと誘ってきた。だが私は、帰り道にちらりと見ていたからと誘いを断った。珍しく急変の患者が多くて疲れていたのは言い訳だ。たった数分でも春彦と一緒に空を見上げたらよかった。 ──映画も観に行かなかったし、小松菜も……。  過去のことも未来のことも後悔ばかりだ。過去にも未来にも、春彦とやり残したことばかり。私は春彦がこんな状態になってから、インドカレーの店にも行っていないし、映画館にも行っていない。そしてあの日グラタンにした小松菜の残りは、今も冷凍庫で眠ったままだ。 *  ふと誰かの気配を感じて、私はそちらに顔を向けた。姿を見せたのは、恭子さんだった。とりとめのない後悔をしているうちに日勤の時間帯は終わったのか、恭子さんは私服姿だった。  唐突に、今日自分が日勤であったことを思い出す。 「すいません。私、もう行かないと……」  仕事に穴を開けてしまった。日勤の時間帯はすでに終わっているが、まだ残っている同僚に謝りに行かないと。  立ち上がろうとするが身体に力が入らない私の前にしゃがみ込み、恭子さんは出来の悪い妹に言い聞かせるようにゆっくりと話してくれた。 「みんな、真弓の事情は知ってるから。今日はもう仕事に戻らなくていいから。これ食べて、身体だけでも大丈夫でいなさいね」  売店のレジ袋から取り出されたものを無意識に受け取る。その温かさに、私はどんなに安心しただろう。 「この時間まで残っているやつだから、正直美味しいのかわかんないけどね。でも、一応あっためてもらったから」  キーマカレーおにぎりだった。温めてもらったおかげか、ほんのりとスパイシーな香りが漂っている。 「ありがとうございます……」 「うん。お大事にね」  恭子さんが帰ってから、おにぎりのフィルムを開ける。一口含んだおにぎりはとてもスパイシーで、行きつけのインドカレーのお店を彷彿させた。  私と春彦の過去と未来をつなぐ現在。それはもう本当に短い時間なのかもしれない。 ──それでも、私は現在にすがってもいいのかな……。  今、手術を受けている春彦がどう思っているかわかる日が来ることは、永遠にないだろう。それでも私は、もう一生笑い合うことのないだろう春彦との現在を、初めて真剣に考えようとしていた。
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