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第4話・鉄板ナポリタン
難しいと言われていた緊急手術が成功し、春彦は意識が戻らない状態ではあるが、もとの個室に戻ってくることができた。無表情で眠り続ける春彦に「また明日ね」と声をかけて家路につこうと病院を出たその時、通勤用のトートバッグの中で大音量を奏でながらスマホが震えた。
まさかたった今出てきたばかりの病院からかと、私は身構える。大音量にしているのは、着信に気づかないという事態を避けるためだった。
着信の相手は、北谷美緒だった。高校時代からの友達で、早乙女良雄とともに春彦とも共通の友達だ。
『やっほー、真弓!』
「美緒、久しぶりだね」
平静を装って美緒に返事をするが、果たしてうまくできたかわからない。
『良雄が春彦くんにメッセージ送ったみたいなんだけど、既読にならなかったって言うのね。あーでも、春彦くんってそういうとこあるじゃん? マメじゃないから、つい連絡を怠ったりするみたいな。で、しっかり者の真弓に連絡してみたわけ』
「あ……うん」
違う。春彦はメッセージを読めない状況なの。どこまで話せばいいのか、私は言葉に詰まる。
『でさー。せっかく夏に4人で会ったことだし、忘年会を兼ねたクリスマスパーティでもしようかって、良雄と盛り上がったんだよね』
「クリスマスパーティか……」
『いいじゃん! また4人で集まろうよ』
私はしばらく逡巡してから意を決する。高校時代の友達には、さすがにこれ以上隠しておくことができない。
「ごめん、美緒。悪いんだけど、私たちはちょっと参加できないかも……」
『仕事? でも、私も良雄も昼間の仕事だし、春彦くんも一日くらい配信の時間をずらせるよね? そしたら夜勤のある真弓の都合に合わせて──』
「無理なの。春彦、今入院してるから」
一瞬の沈黙のあと、美緒がけらけらと笑う。
『ちょっとぉ! また春彦くん骨折でもしたわけ? それめっちゃ受けるんだけど!』
私と春彦が再会して結婚したきっかけが骨折入院だった。南小夜子の法要後に立ち寄った喫茶店で談笑した時も、このネタでからかわれたものだ。
「違う。じつは……」
私は、今の春彦の病状を美緒に正直に話した。さすがの美緒も、私の口調と内容からその深刻さを理解してくれた。
『真弓、私にできることない?』
しばらく考える。じんわりと病院前の景色がかすみ、私は無性に美緒に会いたくなった。
「美緒、今から会えないかな……」
*
会いたいとこちらから言ったにもかかわらず、美緒が指定したのは病院からほど近い喫茶店だった。同じく仕事帰りの美緒にとって家とは反対の方向だが、私が少しでも春彦に近い場所にいたいだろうからと、わざわざこちらまで来てくれたのだ。
私が座る席に息を切らせて近づいてきた美緒は、百貨店勤務の販売員ともあって、通勤スタイルでさえエレガントだった。春彦があんな状態になって以来、最低限の身だしなみにしか気を遣えなくなった私とは大違いだ。
美緒は私が先に注文していた残り少なくなったコーヒーと私の顔とを見比べて、あいさつをする前に店員に注文した。
「鉄板ナポリタンを2つと、私にはコーヒーもお願いします」
「かしこまりました」
店員が去り、私は慌てて美緒に言った。
「ちょっと待って。私、食べるものはいいから……」
「今、年末の繁忙期で百貨店は大忙しじゃん。お昼食べ損ねたんだけど、1人だけがつがつ食べるのもどうかと思うのよ。だから、つき合って」
強引な美緒のやり方だが、じんわりと胸が温かくなる。美緒も私のことを心配してくれているのだ。
食欲なんてわくはずもないと思っていたが、運ばれてきた鉄板ナポリタンを前にすると食指が動くのを感じた。熱々の鉄板に敷かれた卵は絶妙な半熟具合を保っていて、太麺のナポリタンを絡めるとさぞ美味しいだろう。
「熱っ!」
早々に口に入れた美緒が顔をしかめる。それでもめげずにフォークでナポリタンをくるくると巻いては口に入れ、美味しそうに頬張る美緒。
私も同じようにして食べてみる。懐かしさを感じさせるケチャップの味わいに、具材のソーセージとピーマン、玉ねぎの質感。それらをうまくまとめてくれるのが半熟卵だ。
それでも食欲は完全に戻っておらず、やっと半分食べた時、美緒に訊ねられた。
「春彦くんのこと、何で言ってくれなかったの?」
「それは……」
フォークを鉄板の上に置き、考える。
──そうか、私はずっと認めたくなかったのだ。
高校時代からの友達である美緒や良雄に春彦の病状を打ち明けること。それはすなわち、もう春彦が回復できないという事実を明らかにすることだ。
これまでは、どこか長い長い悪夢のさなかにいると自分自身に言い聞かせてきた。夢の中の出来事だと自分に言い聞かせることで、現実から逃げていた。夢ではない現実だと認めることが怖かったのだ。
「怖かった……のだと思う。みんなに言ってしまえば、春彦を本当に失いそうな気がして……」
「はぁ?」
私への気遣い以上に本当に空腹だったのだろう、鉄板ナポリタンを爆速で食べ終えてデザートにプリンアラモードを追加注文した美緒が、眉間にしわを寄せて私をにらんだ。
「あんた、馬鹿じゃね?」
何も言い返せない私に、美緒は畳みかけるようにまくし立てる。
「考えてもみなよ? ずっと友達だった子が一番大変な時にそれを何も知らされず、あとになってあの時こんなことがありましたすごくつらかったですっていきなり言われる私の身にもなってみなさいよ。ってか、私はあんたにとっても春彦くんにとっても友達じゃなかったわけ? 春彦くんがそんな大変な感じになっているんだったら……意識がないんだったら……」
美緒がナプキンで鼻をかむ。顔を上げた美緒の目は赤かった。
「みんなで祈った方が、絶対春彦くんに届くよ……!」
看護師だから、今後春彦に起こりうる事態は理解しているつもりだった。だが、私は看護師だから、余命数か月と宣告されながら何年も生きた患者さんの存在をも知っている。
「そうだね……奇跡、起こせるよね……」
私は、ナポリタンを数口食べる。それらは直ちに私の血肉となっているようだった。
それに私は春彦との現在を大事にすると決めたじゃないか。
「クリスマスパーティ、したい。春彦も一緒にしたい」
「春彦くんも? 病院でするってこと?」
「そう。きっと春彦にも伝わるはずだから」
私は緩和ケア科で勤務していた時の事例を思い出しながら、美緒に説明をした。
「いいじゃん! きっと春彦くんも目を覚ましてくれるよ」
「うん。良雄くんにも来てもらって、楽しいパーティーにしたい」
「任せて!」
私は、久しぶりに心が躍るのを実感していた。
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