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第6話・末期の水
年が明けて2021年になっても、美緒と良雄は時間を作って春彦を見舞ってくれた。主に美緒は早番の勤務が終わったあとに、良雄は営業の合間に。2人とも忙しく過ごしているのでそれぞれ10分ほどの面会で帰っていったが、私にとっても美緒や良雄と話すことは大いに気分転換となった。
そしてそれは、春彦にとっても同じだったようだ。相変わらず意識は戻らないが、自発呼吸も増えて、人工呼吸器から離脱する日もそう遠くはないと担当医から言われたのだ。
それからも春彦は急速に回復し、春の足音が聞こえ始める2月には、ついに人工呼吸器から離脱することができた。
私は久しぶりに顔周りがすっきりとした春彦にキスをし、首に手を回して抱きしめた。舌で春彦の唇を開き、歯をなぞる。
そうは言っても意識はいまだに戻らない。だから春彦の舌が私に絡んでくることはないが、私にとってはこの久しぶりの行為そのものが嬉しかった。
──春彦くん。桜が咲いたら、車椅子に乗ってお花見しようね。
人工呼吸器から離脱できたら、たとえ意識はなくてもリハビリとしてリクライニング車椅子に乗せることは可能だ。気温も上がり始める桜の時期ならほんの少しの時間屋外に出ても……いや、病院の中から眺めるだけでいい。
──春彦くんと一緒に桜が見たいという小さな願いが、どうかかないますように──。
それから私は、春彦の病室に卓上カレンダーを持ち込んだ。1日が終わるごとにカレンダーにバツ印をつけ、春彦にキスをした。
「春彦くん、今日も一日頑張ったね」
「春彦くん、明日はちょっとだけあったかくなるみたい」
「春彦くん、桜の開花予想っていつから出るんだろう」
そんな語りかけを春彦にしながら、私はこまめにニュースをチェックするようになった。
「そっか……。来週は大震災のあった日だね……」
東北地方を襲った大きな地震から、ちょうど10年の節目だ。経験したことのない揺れが私たちの住む街をも襲ったが、奇跡的に家族も友達もみな無事だった。
「春彦くん、地震の次の日、私の顔を見てやっとほっとしたって言ってくれたね……」
当時、充電切れになりそうなスマホで連絡を取って無事を確認し合ったのに、春彦は顔を見るまでは不安で仕方がなかったと恥ずかしそうに言っていた。
あの時はただの友達だと思っていたのに、もしかしたら春彦は私に好意を抱いてくれていたのだろうか。
だとしたら、どうして私は春彦の気持ちに気づくことができなかったのだろう。そして、あの時ちゃんと気づくことができていたら、春彦との時間はもっともっと長くて濃密だったはずなのに。
*
──真弓、大丈夫でよかった。やっとほっとしたよ。
──怖かったんだから。でも、これからは春彦くんがそばにいてくれるよね。それなら大丈夫だよ。
──真弓とずっと一緒にいたかったよ……。でも、僕もう──。
ハッと目が覚める。幸せだったはずの夢なのに目覚めはなぜか悲しく、頬を濡らすものが涙だとすぐには気づけなかった。
スマホで時間を確認すると、3月11日の午前8時を表示していた。
──今日は休みだから、もう少し寝ていたかったのにな。でも、夢で春彦くんに会えたし……。
幸せな夢の中にどこか不吉さを覚えたのは、きっと今日が大震災の起こった日だからだ。そう思って二度寝しようとするが、大音量で着信音を奏でるスマホに身体が硬直する。
──出たくない、出たくない、出たくない……。
恐る恐るスマホを手に取ると、着信相手は勤務先の病院だった。
*
無我夢中で病室にたどり着いた時、春彦は再々出血を起こしたあとで、すでに担当医から脳死状態だと診断されていた。すなわち、脳の根幹となる部分までが機能しなくなったことにより、もう春彦の意識が戻る可能性は全くなくなった。近いうちに心肺停止を迎えることになる。
手術すらできずに病室で眠る春彦の手を握る。再び人工呼吸器につながれている春彦。自発呼吸が再開する可能性はなく、私はもう春彦とキスができない。
──残された時間を大切にお過ごしください。
看護師になってから幾度となく耳にしたこの言葉。医師が家族に宣告するのを耳にしたこともあった。それに、自分自身がその言葉を発することもあった。だが、自分自身がその言葉をかけられるには、まだまだ先のことだと思っていた。
そして、何度か耳にしていたこと。脳死状態の患者さんを目の前にして、ご家族の意思を確認していたこと──。
看護師としての職業的なものか、また春彦の意思そのものなのかはわからない。私は春彦が最初に脳出血を起こして以来お守りのように持ち歩いている彼の財布から免許証を取り出した。その裏面を凝視する。
──春彦くんの意思を尊重するのが、私の最後の役目なのかな……。
臓器提供の意思表示欄に、力強く丸印で囲まれた心臓を含む全ての臓器。私は、春彦の意思を尊重することを決意した。
そして春彦は3月11日午後3時40分、魂としての生命を立派に終えた。
*
臓器提供の手術を終えてもとの個室に戻ってきた春彦は、まるで静かに眠っているようだった。人工呼吸器も点滴も心電図モニターもついていない春彦を見るのは本当に久しぶりだった。
ベッドの脇にひざまずき、春彦の頬に触れる。まだ温かさが残っていて何だかほっとする。
私は春彦に顔を寄せ、キスをした。私自身の湿り気で、春彦の唇を潤わせるように。
──春彦くんはただ眠っているだけ。
そう思い込みたかったのだろうか。
唇を離し、春彦の胸にすがりつく。
──眠っているだけなんでしょ? 明日には目を覚ますんでしょ?
──ねぇ、お願い……。
そこにあるはずのものがないことに、初めて心の底からの悲しみを覚え、私はただただ泣き続けた。
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