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プロローグ・終わりの始まり
「春彦くん、遅くまで配信してたらだめよ。今日は疲れてるんだから早めに寝てね。おやすみ」
「あぁ、おやすみ」
先に寝室に行こうと、私はリビングのソファに腰をかけてスマホを見ている夫の春彦に声をかけた。ちょうど春彦も自室に向かうところだったようで、立ち上がって私の手を取り、キスをしてくれた。
2020年8月8日、夏真っ盛り。今日も朝から蒸し暑く、夜になってもまとわりつくような熱気が落ち着く気配はない。あらかじめエアコンをつけていた寝室も、どこかけだるい雰囲気をまとっている。
「疲れているせいかな……」
そんなひとりごとをつぶやき、私はベッドに腰をかけて肩をもむ。何となく身体がだるいのは、着慣れない喪服を着ていたからかもしれない。
8月8日は、私たち夫婦にとって心に影を落とす日。それはあれから10年経った今でも変わることはない。
10年前の今日、同じ高校に通う同級生だった私たちは、南小夜子という友達を亡くした。校舎からの飛び降り自殺だった。
──どうして小夜子が自殺なんて? どうして私に相談してくれなかったの? どうして一緒に卒業できないの? どうして、どうして、どうして……?
卒業式を約半年後に控えた高校三年生の出来事だった。
あの日は補習があったので、午前中は学校で春彦やほかの友達とも一緒にいた。その時の小夜子は特にいつもと変わりはなく、冗談を言い合ったりして笑っていたのに。
確かに小夜子は、普段からおとなしい子だった。もしかしたら悩み事を抱えていたのかもしれないが、気づくことはできなかった。
──どうしていつも一緒にいた小夜子なのに。どうして小夜子は死を選ばなければならなかったんだろう。どうして私は小夜子のSOSをキャッチできなかったんだろう。どうして、どうして、どうして……。
小夜子のことを考えていると、やがていつも自己嫌悪になる。私はそんな自分が嫌いだった。
今も心がざわつき始めたので、意識を春彦に向ける。
「春彦くん、まだ寝ないのかな……」
春彦も疲れているはずなのに、まだ配信をしているのだろうか。
春彦はゲーム実況をネット配信しているので、深夜の時間帯が労働時間といえる。だから、もうすぐ日付が変わろうとするこの時間に起きていても、なんらおかしくはない。
対する私は看護師として県立中央病院で働いている。明日は日勤だから、早めに休んで勤務に備えたい。
私は1人ベッドにもぐり込んで目を閉じる。だが、疲れているはずの脳は、勝手に今日の出来事を回想する。
今日は小夜子の十回忌の法要だった。休みを取った私は、春彦とともに出席していたのだ。
──みんな、元気そうだったな……。
私は口角が上がるのを認識した。
私たち夫婦のほかに来ていた同級生は、北谷美緒と早乙女良雄。高校生の頃は、この4人に小夜子を加えたメンバーでよく遊んでいた。
小夜子には申し訳ないが、10年ともなると残った私たちは同窓会気分になるものだ。法要が終わったあとは喫茶店に移動してたわいもない話に花を咲かせた。小夜子のことでいっときはぎこちない雰囲気に陥っていた4人が久しぶりに集まり、穏やかな時間を過ごせたのも嬉しかった。
何となく気まずかったのか、小夜子の話題が出ることはなかったが、みなそれぞれに彼女を悼んでいたのだと信じている。それに10年という年月を経て、それぞれがそれぞれの経験を重ねたことで、ひと回り器も大きくなったのだろう。
美緒はまだ独身だが、良雄は結婚したし、私と春彦も結婚した。ただ、変わりゆくそれぞれの人生とは裏腹に、小夜子だけは年を取ることもないし新しい経験を積むこともない。
そう思うと何だか急に寂しさを覚え、春彦が恋しくなった。何気なくスマホで時間を確認すると、0時を少し過ぎた頃だった。
──8月8日が終わった……。
感覚的にはまだ今日が続いている。だがデジタルの画面で時刻を確認すると、何となくほっとした。と同時に寂しさは募る一方で、私は起き上がってベッドから出る。
廊下に出て、春彦の部屋の前で耳を澄ませた。4畳ほどの小さな部屋だが、そのちょうどいい狭さが配信をはかどらせるのだそうだ。
いくら耳を澄ませても、動画の収録をしている時の実況の声が伝わってこない。編集をしているようなパソコンの音も聞こえない。ということは、今ドアをノックしても迷惑がられない。
コンコンとドアをたたく。だが、返事はない。パソコンに向かって寝ているのだろうか。
「春彦くん。寝てるの? ちゃんとベッドで寝なきゃ、疲れが取れないよ?」
そう声をかけてみたが、相変わらず返事はない。
「ドア、開けるよ」
取っ手を下げてドアを開けると、案の定春彦はパソコンデスクに突っ伏して眠っているように思えた。
私は近づいて肩をゆすろうとするが、ある違和感に気づいてさっと血の気が引く。
──寝息が聞こえない。
私は看護師だ。脳をフル回転させて、春彦に起こっていることを考える。脳卒中、もしくは心疾患……? 場合によっては動かさない方がいいこともある。
それよりも……救急車。そうだ、スマホ。スマホはどこ?
慌てて寝室にスマホを取りに戻る足がもつれる。何とかスマホを手に取り、119番をタップする。救急科で研修を受けていた時に救急車の受け入れは経験していたが、自分で要請するのは初めてだった。
──あの時、あと数分いや数秒でも早く春彦の異変に気づくことができたら……。
それから私は苦しむことになる。
脳出血。それが春彦を襲った病気だった。
──数分数秒なんかじゃなくて、配信をしようと自室にこもろうとする春彦を強引に引き留めていたら……。
私は看護師だ。春彦に起こる異変を的確に察知して対処できたのに。そうしたら春彦は、今頃ベッドの上で私に笑顔を見せてくれていたに違いないのに。
だが、春彦は私の前で眠り続けている。そして、担当医によると、春彦の意識が戻る可能性は著しく低いと。
私はベッドから出ている春彦の手を握る。だがその手が握り返すことはなかった。
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