二 美しい男

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二 美しい男

 宗次郎は川を眺めていた。  ついさっきまで、混沌とした墨汁のようだった川面に、己の姿が揺れる様を見て、夜が明けていたことに気付いた。  故郷の紀ノ川とは全然違う。大いに人の手の加わった川だ。江戸の町を機能させるために造られた川は、その流れの穏やかさゆえに、再び降り出した小雨の波紋すら明瞭に見える。  その先で水を落とし続けている堰は、ずっと止むことなく音を響かせていた。 「昨夜の話だが、結局、尾張殿の弟君が左遷させられた理由って、何だったんだ」  朝餉(あさげ)に添えられた香の物を噛みしめながら、雲雀の後ろ姿に問いかける。  間部と新井が失脚……というのは理解できたが、安房守(あわのかみ)こと、松平通温(みちまさ)が江戸を追われた理由がわからないままだった。 「あのお方は、まこと切れ者で、しかも恐れ知らずでございました」  「あのお方」とは、安房守のことだろうか。  振り返った雲雀は、少し遠くを見るような目をした。 「将軍職の跡目争いに敗れたのは尾張殿ではありません。あれは尾張の殿様を押し上げたかった間部様や新井様と、その御二方に反目する幕閣たちとの争いでした。負けた間部様と新井様は役を解かれて隠居。後ろ盾を失った安房守様は、ほぼ自棄にも近い形で上様を批判なさっていました。それが目に余るほど過激になられたので、幕府との軋轢(あつれき)を危惧した尾張の殿様の命で、江戸から追放となったのです」 (ほんなら美津は、安房守の謀りを知って、尾張の手のもんに消されたっちゅう可能性もあるな)  宗次郎の憶測にすぎない。役者が全て舞台を降りてしまったのだから。今はもう、美津の死は謎でしかない。 「しかし、どこへ行ってらしたのですか、朝も早くから」  土間のすみに置きっぱなしにしていた(みの)を、雲雀が汚らしそうにつまみ上げる。 「雨降りの日は鳥を刺さないと思っておりましたが」 「そんなことはない。橋の下で雨宿りする(はと)は狙いやすいのだ」  雲雀が得意気に口角を上げた。 「ああ、揚場(あげば)の橋へ行ってらしたのですね」  こんなあからさまな誘いに答えてしまったことに悔しくなって、湯漬けの米をかき込んだ。 「なにか、わかったことがありましたか」  興味を示されたことに少しばかり意外な気がして、まじまじと雲雀の顔を見る。しかし相変わらずの無表情は、愛想など微塵も見られない。 「どうしました?」 「いや、お前が俺の仕事を気にするとは思ってもいなくて」  宗次郎は素直に答えた。 「もしや、目を付けていた奥女中が、目を離した途端に死んだから気にしているのか」 「ふっ、そんなことで気を病むなどあり得ませぬ」  素っ気なく否定され、不貞腐れた顔をしていると、雲雀は台所の板の間に腰を掛け、前掛けで手を拭いた。 「私たちの仕事は、奥女中を守ることではありません。上様をお守りすることですから」 「そんなことはわかっている」  憮然として返す。 「宗次郎さんは江島生島(えじまいくしま)事件というのをご存知?」 「いや……」  美津の背景を知った今、宗次郎は己の無知さが歯がゆかった。
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