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「ああっ、流されちまうぞ!」
誰かが叫んだ。
その紅い花は、静かに船着場から離れようとしている。
宗次郎は思わずその場に停泊していた猪牙舟に飛び乗り、体を乗り出した。
「おい、あぶねえ!」
船頭が慌てて駆け寄り、舟の頭を縛っていた綱を持つ。
「誰かあいつの体を支えろ!」
「俺が行く」
船頭の呼びかけに応えたのは、先程の若侍。すかさず乗り込んで来たかと思うと、宗次郎の腰をがっしりと抱きとめた。
(もうちょい……)
宗次郎はさらにぐっと身を乗り出し、腕を伸ばす。流れの中をまさぐるようにした手に、女の――おそらく若い女であろう腕が触れた。
「うっ」
流れる水よりも冷たい感触にぞっとした。
水を吸った着物は思った以上に重く、川の流れに宗次郎自身も一緒に持って行かれそうになった時、腰を掴んでいた若侍の手に力がこもった。
「踏ん張れ、もうちょっとだ」
背後の声にならい、女の腕を握る手に力を込め、舟の縁を掴んでいたもう片方の手で揺れる着物を掴んだ。
もう死んでいる――わかってはいたが、それでも何とか舟の下まで引っ張った。
やはり、若い娘である。
宗次郎が娘を舟の下まで引いたと同時に、見守っていた野次馬の一人が櫂でその着物を引っかけ、そろそろと岸まで誘導した。
宗次郎が娘から手を離したことを確認したように、腰を掴んでいた腕が緩んだ。ゆっくりとした動作で体を起こし、舟の縁に背を預け、大きく肩で息を吐いた。
すでに呼ばれていた*番太と、近くの船宿の船頭たちによって、女の水死体は無事に岸へ引き上げられたようだ。その一連の騒動を舟の上でぼんやりと眺めていると、若侍が声をかけて来た。
「無茶をするな。落ちたら仏さんと一緒に流されちまうとこだったぞ」
左右に揺れる猪牙舟の真ん中で睨んでいる。
「大丈夫だ。落ちたところで泳げる」
見ず知らずの男が、赤の他人の自分を真面目に心配していることに戸惑い、つい素っ気なく答え、先に舟を降りた。
ござの上に寝かされた娘の顔は隠されていたが、だらりと力の抜けた手足の異様な白さが、すでに魂が消えていることを示している。
巷の流行色ではない煌びやかな友禅の紅い牡丹が、まるで血のようにも見え、宗次郎は口の中を甘噛みした。
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*番太――江戸時代、警察機構の代わりとなる町村治安の末端担当。主に木戸の隣の粗末な小屋に住み、犯罪予防、摘発、死人の確認等を任されている。身分は非人で被差別身分。
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