二 求馬と九鬼丸

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「だいじょうぶか。まるでお前が死人のようだぞ」  さっきの若侍が、いつの間にか隣に立っていた。 「平気だ」  言いつつ、女の死体から目を逸らす。  そのうち町奉行の同心が現れ、死体の検視が始まった。  宗次郎は若侍に背を向け、川の水で手を洗った。あの娘の皮膚の感触が消えるまで、ごしごしと両手を擦り合わせる。  夢中で手を擦っていると、背中に気配を感じた。手を洗うのを止めて振り向くと、さっき死体を検分していた同心が立っていた。 「お前さんが仏さんを見つけたのか」 「いえ、見つけたのはここの船頭で、俺は流されそうになっていた仏さんを引き上げる手伝いをしただけで」  座ったまま言い訳のように、ぼんやり答えていた時だった。 「いやあぁぁぁぁー!」  ひときわ大きく、悲痛な声が響き渡り、一瞬その場がしんと静まった。 「身投げだってよ」 「旗本のお嬢さんらしいぜ」 「可哀そうによ」  気の毒そうに交わされるひそひそ話によると、泣き声の主はあの娘の母親らしい。大八車に載せられた亡骸(なきがら)(すが)りついて何度も名前を呼ぶ。 「おみつ、おみつぅ」  宗次郎の背後にいた同心が、大八車の方へ戻って行った。そして、取り乱している女を庇うように支えていた男に、遺書らしき文と草履を手渡す。 「ああいうのを見ると、やり切れねえな」  猪牙舟の上で宗次郎の腰を支えてくれていた若侍が零す。  しかし同心にとってはよくある出来事なのだろう。淡々と説明をしている。 「これらが橋のたもとに遺されておりました。あそこの柱に引っかかってくれたおかげで、お嬢様は(しも)に流されずに済んだようです。顔が赤くなっておらぬことと、それほど水を飲んでおらぬことから、飛び込んですぐに心の臓が止まってしまったと考えられまする。一応、その他にも傷や痕がないか調べをせねば決めかねまするが、おおよそ、身投げではないかと推し量り申し上げます」  男が同心から差し出された文を受け取り、その場で広げた。男の肩ががっくりと落ち、そのまま文を握りしめた。 「まさか身投げ……そんな……」 「心痛、察するに余りまする。しからば、後ほど北番所(北町奉行)にて話を伺いたく存じまする」  亡骸が運ばれていく。大八車が動き出したと同時に、母親は気をやったように倒れ込み、すぐそばに仕えていた従者に支えられながら駕籠に乗せられた。
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