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「あちらの方々が、お嬢さんを引き上げて下さったようで」
同心がそう説明したせいで、宗次郎の去り時は失われてしまった。
いたたまれない。何と声をかけて良いのかも、どんな態度を取れば良いのかもわからず、ただ軽く顔だけで会釈した。
すぐさま父親が駆け寄り、深々と頭を下げられる。
「ありがとうございました。御手を穢させてしまい、真にかたじけないことでございまする。それがしは御書院番士の浅井半兵衛と申します。ぜひ、お礼に伺いたく、貴殿らのお名前を」
宗次郎は慌てて手を横に振った。
「いえ、お構いなく、本当にただ通りすがっただけですから」
しかし若侍の方は、浅井に話しかけた。
「拙者、松……松本求馬と申す不肖の部屋住みでござるが、もし、差し支えなければ事情をお聞かせ願えぬだろうか」
余程、親切心の旺盛な男らしい。さっき宗次郎のことを心配したこともそうであるが。
(ほんま、お節介な男や)
あきれ、横目で睨んだ。
浅井はほんの少しの間、目を瞑ると、すぐに意を決したように話し始めた。
「実は今朝方、いつもは早起きの娘が起きて来ぬことに気付いた妻が娘の部屋に行ったのですが、その時すでに部屋はもぬけの殻で。しかも寝た形跡もなく……そこで初めて娘がいなくなっていることに気付き、慌てて番所に駆け込んだ次第でございます」
握り込んでいた文に目をやる。
「ですがすでにこの有様でして、拙者も何が何やら……。娘は数日後に見合いを控えておりましたゆえ、この様な、身投げなどするはずはないと、よもや美津に似た他人の空似であろうと……」
「顔を見るまでは信じられなかった」
「ええ」
流石に妻のように取り乱すことなく語り終えると、握りしめていた手を開き、文の皺を伸ばして見せた。
「あいや、それは御内儀殿と」
松本求馬と名乗った若侍が、あわて制止したにもかかわらず、浅井は求馬に向かって差し出した。
「『恋ひ死なば鳥ともなりて君がすむ宿の梢にねぐらさだめむ』……これだけ?」
求馬が読んだのは、ただ一行の和歌。
「妻には伏せておりましたが、実はとある噂を耳にしておりました」
「噂、とな」
眉間の皺を深くした浅井が肯く。
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