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すでに野次馬たちも同心も散って、船頭らは仕事に戻っていた。日常の戻った川岸には、何事もなかったように燕が低く旋回している。浅井はその燕を見るともなく眺め、皺の寄った眉間を指の先で揉んだ。
「なんでも、娘が叶わぬ恋に溺れていると」
「お相手は。いえ、噂の相手です」
「拙者には見当もつきませぬ。もとより世間知らずの娘ゆえ、未だ恋に溺れて身投げなど信じられませぬ。しかし、これは娘の手(筆跡)ではない」
遺書だと思われた恋歌の紙を、再び握りしめた。
求馬と宗次郎が顔を見合わせる。
「つまり、この文は、相手の男から贈られてきたものだということか」
浅井は震える唇を深呼吸で抑え込むと、まっすぐ求馬の方を見た。
「どうぞ、このことはご内密に。こうやって話を聞いていただけただけでも心が静まりましてございまする」
娘の残した草履と文を胸に抱き、深く辞儀をする。そしてそのまま、武家屋敷の並ぶ川下へと歩き去った。
「朝っぱらから、嫌なもんを見ちまったな」
宗次郎が踵を返す前に、求馬から苦笑いが向けられた。
「嫌なもんの事情を聴いちまって、どうなさるおつもりですか」
皮肉で返すと、
「さあて、どうしようか」
と、からからと笑った。
この男を相手にしていると、どうも調子が狂う。この雰囲気、醸し出す空気といい、誰かに似ていると思った。
「ああ」
「どうなされた」
急に声を上げた宗次郎に、求馬が首を傾げる。
「いえ」
そうか、あのお方に似ているのだ。雰囲気が。上様、徳川組の大親分に……と、宗次郎は妙な納得をする。
「どうだ、ちょいと俺につきあわねえか。こう見えても、この界隈では名の通った遊び人でね。今から馴染みの店に行くゆえ、お主もつきあえ」
お節介男は、びっくりするほど馴れ馴れしかった。
宗次郎は胡乱げに求馬を見返した。
(遊び人やて。嘘やん。どう見たってただの旗本やない。大身旗本どころか大名家のぼんぼんやんけ)
『松本』と名乗った。松本家など腐るほどあろうが、いかに庶民風に当世流行りの柄の着流しを着ていた所で、育ちの良さまでは隠せていない。その爽やかな顔立ちは浮世離れした雰囲気をぷんぷんと漂わせている。
だが、宗次郎の腹の中など知ったことかとばかりに、求馬が宗次郎の手を取った。
「やめっ」
反射的に振りほどいた宗次郎を、驚いた眼で見ている。その邪気のない顔につい、言い訳がましい言葉が口を吐く。
「つ、つい先ほど死人を触った手です。不浄の手ゆえ、勘弁願います」
しかし、求馬はその言い訳を鼻で嗤った。
「んなこたぁ、俺は気にせん。それにさっきまで散々川で手を洗っていたであろうが」
そう言うと、再び手を取り直し、さっさと歩きだした。
「ちょ、どこへ」
「まあ、ついて来いって」
そのまま強引に、揚場町の中にある煮売り屋まで、引っ張って行かれたのだった。
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