一 殺生人と助広

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一 殺生人と助広

 今から(さかのぼ)ること二十三年前の元禄(げんろく)六年。  生類(しょうるい)(あわれ)みの(れい)を布令した五代将軍綱吉(つなよし)は、その対象を犬猫、飼い鳥に留まらせず、とうとう御鷹狩(おたかがり)をも辞める決議を下した。  それまで政治的慣習として、軍事演習の延長でもあった御鷹狩を廃止し、大名からの御鷹の献上、さらに将軍からの獲物の下賜(かし)も取り止めとなった。  その波及はそれにかかわる役人にもおよび、鷹匠(たかじょう)餌差(えさし)鳥見(とりみ)といった役人らは、別の役への配置替えとなり、江戸近郊に設けられていた大名所有の御鷹場(おたかば)(鷹狩用の地)のほとんどは、幕府へ返上されることとなった。  時は過ぎ、綱吉の死後、(くだん)の令は撤廃(てっぱい)されたにもかかわらず、その後の将軍家宣(いえのぶ)家継(いえつぐ)ともに鷹狩はもちろんのこと、諸大名からの御鷹献上を受けることもなく、将軍家御鷹狩の故事は、ついに途絶えようとしていた。  それを此度、八代将軍として就任した紀州藩主、徳川吉宗が復活させたのである。  吉宗は神君家康公の頃の幕府を復古させたいと目論んでいた。  武士としての志が緩み、華美や(たのし)みに金が流れ、贅沢が過ぎるために財政難に陥るなど。それは神君の望んだ幕府の在り方ではないと考えている。  その家康公は鷹狩を好んだと伝わる。あの大坂の陣の前後にも鷹狩を実施し、獲物を諸大名に下賜している。それに(なら)うかの如く、吉宗も鷹狩を好んだ。綱吉時代においても、交代(参勤交代の帰国)で帰藩の際には、忍んで鷹狩を行ったほどだった。  まるで狙っていたかのように、七代将軍家継の死後、吉宗が真っ先に行ったこと――それは、新番(しんばん)(幕府の役の一つ)に退いていた元鷹匠頭(たかじょうがしら)戸田五助勝房(とだごすけかつふさ)との面会であった。すっかり忘れ去られてしまった御鷹狩の故事を蘇らせるため、五助を直々に呼びつけ、戸田家に伝わる将軍家御鷹狩に関する詳細を調査、報告させたのだ。  その結果、将軍宣下直後にに発した命が、弘前藩津軽家へ向けた『御鷹献上(おたかけんじょう)』であった。  それは実に、二十四年ぶりの御鷹献上となったのである。
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