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牛込は高田や大久保にかけて、この辺りは江戸城下でも墨引き(町奉行管轄内)の端っこで、大名家の広大な御下屋敷があちらこちらに建っている。
その中でも*戸山屋敷、あるいは戸山荘と呼ばれている尾張の下屋敷は、宿場町を一つ飲み込んだのではないかと思えるほどの茫洋たる広さを持っていた。
宗次郎の先を行く三度笠の鳥刺しは、先の見えない戸山屋敷の外塀に沿った道をひたすら歩いている。
そのうち御成御門と思わしき立派な構えの門を通り過ぎ、さらに随歩いいてから、もう一つの門の前にたどり着いた。
三度笠の男が立ち止まると、宗次郎の方を振り返った。
「ここは戸山荘の車力門だ。いわゆる大八車のための門ってわけさ」
大八車が通る時には、その門は観音開きになるのだろう。
さっき、塀の外から小高い丘が見えた。それに寺らしき塔の屋根も見えている。鬱蒼とした森を思わせる所も……。
通用門に向かおうとする男に尋ねた。
「それにしても中はどうなっているんだ。山まで見えた」
三度笠の男がニヤリと笑った。
「山だけじゃねえ。この中にはどでかい池があって、おまけに川も流れている。田畑だってあるぞ。当然、御殿も御庭も馬場も鷹部屋も、中間や家臣たちの長屋だって普通にあるさ。だから大量の荷を運び込むために、こんな立派な御門がいるってぇわけだ」
「てことは、中には百姓も住んでいるのか」
「多分、雇われて住んでいるんだろう。あっしら、下々に詳しいこたぁわからねえが」
男が通用門の前で立っている門番に腰の鳥籠を見せると、あっさりと門が開かれた。
ちらりと見えたのは、茂った雑木林と竹林らしき緑の重なり。そしてわだちのある広い道。
中を覗いたところで、宗次郎は男の背中に声をかけた。
「やっぱりやめておく」
振り返った男の顔は無表情だった。驚いた様子もなければ怒ってもいない。
「こんなでっかい屋敷を見たら、おっかなくなっちまった」
無言で宗次郎を見ていた男は、すぐに取り繕うような笑みを口に浮かべた。
「そうかい? いい話だと思うんだがなあ」
「金は欲しいが、怖いのは嫌だ」
「怖くはねえ。何しろ、この屋敷だ。役人も入って来れねえ」
「……もう少し考えさせてくれ」
「まあいいや。また気が向いたら、あっしに声をかけとくれよ。いつもは朱引き(江戸郊外)の外で鳥を追っているからよ」
「ああ」
男が中に入ったと同時に、門が閉じられた。
独り残された宗次郎は考えた。
(さて、どうしようか……)
この中で何が行われているのか、今探った方が良いのか。あるいは一旦退いて相手の出方を待つか。
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*戸山屋敷――実際に江戸後期には、宿場町を模した商店街や農村まで造り、テーマパークのような有様だったそうです。時の将軍家斉公も訪問されたとか。庭園はドーム10個分だったそうです。早稲田大学文学部、学習院女子大、戸山公園、国際医療センターなどを含む、新宿戸山1~3丁目までが、まるっと一つの御屋敷だったことになります。
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