三 尾張の下屋敷

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 ピウ――右耳に剣が空を斬った音を聞きつつ、左側の男の懐に助広を沈めた。  すぐ背後に着地した気配。 (来る)  背後の賊が体勢を整える前に、助広から手を放し、振り向きざまにそいつの首を割いた。  袖に隠し持っていたのは、繰小刀。竿を削るための小刀の鋭く尖った先が、喉を貫き頸動脈を切断した。  誤算だったのは、喉を貫かれてもなお、宗次郎の動きを拒むが如く、男が体を張って止めてきたことだった。それを予測していなかったわけではないが、そのせいで返り血を避けることができなかった。  勢いよく噴き上げる鮮血を顔で受け止めた時、突然目の前が暗くなった。  暗転した視界に何かが見える。必死で目を凝らすが、それは足元に崩れ落ちる男の死体ではなく、赤く染まった幼い己の右手と板の間の血溜まり……  腹の中から猛烈な吐き気が込み上げてきた。 「うっ」  宗次郎の顔が歪み、体の全ての動きと思考が止まった。 「おい! 殺されるぞ!」  突然聞こえたその声が、宗次郎を『今』へと手繰り寄せた。  誰の声なのかわからない。ただ、自分に刀が迫っていることだけはわかった。  斬りかかってきた最後の一人をすんでのところで避ける。だが、その拍子に血の付いた草に足をとられ、尻を突いた。にやりといやらしい口元が男の手の間から覗く。  笑いは油断だ――無表情の宗次郎は、転がりながら死体の腹に刺さっていた助広を抜くと、男の歪んだ口元を目がけて突き立てた。  助広の切っ先は男の顎を貫き、滴る血が刃に伝って流れた。 「おい、生きているか」  さっき聞こえた声と同じ声が、今度はすぐ近くから聴こえる。この声には覚えがある。  しかし宗次郎は敵の顎を貫いた助広から手を放せずにいた。これを手放したらきっと、この死体が自分目がけて覆いかぶさるだろう。そうなるともう、正気を保てる自信がない。 「九鬼丸……助けてくれ……」  自分でも情けなくなるほど、震える声が出た。  やはり声の主は九鬼丸だった。彼は賊の死体が倒れ込まないように支えながら、宗次郎を引っ張り出してくれた。
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