三 尾張の下屋敷

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「これ全部、お前がやったのか」  死体の顔を一つ一つ確かめている九鬼丸に、宗次郎は無言でうなずく。  とにかく血の臭いがまとわりついて気分が悪い。だから口を開き気にはなれなかった。なんとか立ち上がって一歩踏み出したが、おぼつかない足元で、再びひっくり返りそうになったのを、九鬼丸に受け止められた。 「おっと、しっかりしろ」  背中に感じる九鬼丸の体温に人心地がつく。体重を九鬼丸に預けると、先まで喉元にせり上がって来ていた吐き気と、叫びたくなるような衝動が、ゆっくりと引いて行った。 「歩けるか」  優しい声に、宗次郎は再び首を縦に振る。  九鬼丸に支えられながら、畑地の先の傾きかけた百姓家へと連れて行かれた。 「ばあさん、ちょいと水を借りるぞ」 「へえへえ」  軒先で菜種をより分けていた年寄りは、手を休めることなく気軽な返事をした。  九鬼丸は懐から出した手拭いにたっぷりの水を含ませると、宗次郎の顔と首にまで付着した血をごしごしと拭った。 「大丈夫か。ほかに怪我はねえか」  血の臭いから遠ざかると、ようやく呼吸が楽になった。さっきまで陸に投げ出された鮒の気分だった肺に、新鮮な空気を送り込む。 「かたじけない。俺、血が苦手で……取り乱して……」  ようやく声が出た。 「あれだけ派手に立ち回っておいて血が苦手とか、ねえだろ」 「あれは急に襲われたから……仕方なく」  呆れた表情の九鬼丸に、歯切れの悪い言い訳をする。 「九鬼丸さんはどうしてあそこに」  偶然だろうが、九鬼丸が通りすがってくれて助かった。 「俺か、俺は戸山荘に届け物をした帰りだ」 「届け物?」 「求馬殿だよ。あれで大層な御家柄の若様だって言ったろ。色々まあ、つきあいなんぞがあるんだってよ」 (ああ、なるほど)  しかし下屋敷とはいえ、尾張家だ。ただの大名ではない。まさか勤番長屋に住まう家臣を訪れたのではあるまい。御殿に住まうお偉いどなたかと会合なさったのだろう……などと考えると、そこに立ち入ることができるほどの御身分だと言うことに改めて納得する。  あながち、宗次郎が初めに抱いた予想は、外れていなかったようである。 「だが、お前が殺った奴ら……ありゃあ……」 「知っているのですか、九鬼丸さん!」 「ああ、いや、詳しくは知らぬが。お前が鳥刺しを生業としているのなら、公儀に鳥を売っているってことだろ」  宗次郎の腰の鳥籠と、畑の畦に投げ出された竿を見比べながら言った。 「ならば、あいつらにはかかわるな」 「どういうことだ」 「本当に知らずにかかわったのか」  きつい目で睨まれ、視線を落とす。 「つまりはそういうことだ。御上に知られちゃあ、まずいような取引をしているってえことだ。詳しくは知らねえが、ああいう下屋敷ではよくあることさ」 「ほかにもあるのか」 「俺は災い事に巻き込まれたくはねえからな。だからよその屋敷内のことは何も知らねえし、かかわりも持たねえ。お前もこれに懲りたら、これ以上首を突っ込むな。あの死体についても、知らぬ存ぜぬを貫け。わかったな」  強く言い聞かされ、宗次郎は仕方なく肯いた。
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