一 大奥の女

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 さっきの会話の答を半平太が知る必要はないと、宗次郎は思う。  武士の癖に半平太は純真だ。汚れも知らず(ずる)さも持っていない。何のてらいもなく歯を見せて笑う。真面目に茶店の娘を嫁にしようと考えている。  ――「どうだってんだ」  答えを聞かずに行ってしまった後ろ姿に答えた。 「どちらか一方だけに頼っちまうと、不義理が生まれるのさ」  あの鳥見殺しも闇餌差も、不義理不正がこじれた結末に間違いない。 「何か言った?」 「いや、何も」  振り返ったおふみの明るい笑顔に、半平太の白い歯が重なり、心がきゅっと締め付けられる。  己にはこの二人のような可愛いやり取りができる恋などできないことを知っている。  ささやかな幸せは、あの空の雲のように遠く掴めないものなのだ。  結局、まっすぐ紀伊国屋には戻らなかった。何となく、求馬を思い出していた。もちろん逢えるとは限らないのだが、珍しく人恋しい気分だった。  そのまま城に向かって歩き、橋を渡って揚場河岸(あげばがし)まで来た。 (たしか『角吉』やったっけ)  うろ覚えの記憶を頼りに揚場町の煮売り屋を探すが、牛込門まで来てしまった。行き過ぎたことに気付いて引き返そうとしたところで、喧騒が耳に入る。    喧嘩騒ぎだ。  人だかりに近づいて覗き見ると、神楽坂の真ん中で、三人組の侍が商人らしき男を囲んでいた。  この間の身投げと言い、この辺りはそれほど物騒な町だっただろうかと、野次馬を横目に通り過ぎようとした時、 「あいや、待たれぃ!」  誰かが仲裁に入った。いや、誰かではない。聞き覚えのある声に驚いて、宗次郎は足を止めた。 (おいおい、いけんのかよ)  矢鱈縞(やたらじま)の着流しを着こなした勇み肌は、まぎれもなく求馬である。  求馬は芝居がかった声で、無謀にも三人のうちの一番大柄で人相の悪い男の前に立ちはだかって、見得を切っていた。 「素浪人とて武士の端くれであろう。武士は弱い物を虐めてはいかん」 「そうだそうだ!」  どこからか賛同の野次まで飛んだ。  馬鹿にされたと感じたのか、大男は顔を真っ赤にして怒鳴った。 「じゃかあしい! 誰が素浪人だ、無礼者!」 「あ」  宗次郎の口が「あ」の形に開いたまま、激しくため息を漏らす。  求馬は男に衿を掴まれるや、簡単に突き飛ばされている。 (ほれ見たことか)と、すかさず助太刀しようと宗次郎が踵を返す間も、求馬はなおも食らいつて、這いつくばったまま男の足首を掴んでいた。 (あほが、なにしちゃある!) 「てっめえ、舐めやがって」  求馬に足首を掴まれ、転びそうになった男が逆上した。  野次馬の中から悲鳴が上がるのとほぼ同時だった。 「いい加減にしなよ、おっさん」  刀を振り下ろそうとした男の手首に、宗次郎の蹴りが命中した。
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