一 大奥の女

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「お武家さん、腰抜けちゃいましたかね」  呆れ顔を隠しもせず、求馬に向かって手を差し伸べた。  着流しを砂だらけにした求馬は、座り込んだまま嬉しそうな顔で宗次郎を見上げた。 「あいや、かたじけない、平気じゃ。ああいう弱い者いじめは許せなくてな」  あっけらかんと答え、宗次郎の手を取る。 「だが剣術はともかく、組手は苦手でなあ。ついでに手が汚れるのも好かぬ」  着物の裾をはたいた後で背を伸ばすと、笑みの形に細くなった二重の瞼は、宗次郎の目線よりもうんと高い位置になった。  改めて立ち居振る舞いを見ると、さほど弱そうに見えないから不思議である。 「手を出すための正当な言い訳を付けるためにわざとやられて見せたのですか」 「まさか、それは買いかぶりすぎじゃ。しかし、宗次郎、お主は見かけに似合わず、本当に強いのだな。そうだ! 助けてくれた礼だ。角吉へ行こうぞ」  結果、当初の目論見通り、求馬と出会うことが叶ったのだった。  派手な紅を差した角吉の女将は、次々と出入りする客それぞれに愛嬌を振りまきながらも、宗次郎と求馬の前に小鉢を並べていく。 「今朝はね、活きのいいセイゴが入ってさ、牛蒡(ごぼう)と煮たんだよ。あとは焼き豆腐にそれから煮豆、飯は握りにするかい?」  急に色っぽい微笑みを向けられ、宗次郎はつっかえながら答える。 「え、あ、はい、握り飯で」  女将が頬を緩めて猫なで声を出す。 「かわいいねえ、あんたみたいな美人さんなら、毎日でも奢ってやりたいよ」 「そいつぁ、ありがてえが、そんなことをすりゃあ、旦那に叱られちまうんじゃねえか」 「あらま、求さんてば、心配してくれるのかい。で、求さんは何にするんだい」 「俺にはさっぱりとした汁をくれ。それと」 「お酒、でしょ」  宗次郎にしたよりも、もっと色気のあるしなを作って答えた。  女将の豊満な尻を眺めていた求馬が宗次郎の方へ向き直る。 「で、お主は俺に会いに来てくれたのか」  求馬もまた、半平太のように歯を見せ、にかっと笑った。 「お武家様が、そのように歯を見せて笑うもんじゃごさいません」  図星なのが悔しくて、つい可愛くない嫌味を口走ってしまった。だが、求馬に嫌味は通じなかったようだ。それどころか、肯定の返事だととらえたのか、さらに嬉しそうに声を立てて笑うではないか。 「そうか、そうか、嬉しいなあ」と。 「で、今日はは、九鬼丸さんは」 「またこんな所で」と、叱られやしないかと、店の出入り口を見ながら問うと、全く違う答えが返ってきた。 「宗次郎は和歌山の出か?」  問いで返され、戸惑ってしまった。しかも郷里を言い当てられている。 「いや、『今日は』のことを『今日はは』と『は』を二度言うのは、和歌山のお国言葉だと、前に紀州殿が言うておったのを思い出してな」  思わず口に手をやった。お国言葉を出さぬよう気を付けていたのに、つい、こういう所でボロが出る。  別に求馬相手に、里を知られたところで何も困ることはないが、以後、気を付けようと思う。
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