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いつか思い出せなくなるほどに忘れてしまいたいと思った人がいる。恥ずかしいほどに好きになって、見境がなくなるほどに愛してしまった人だ。
このまま忘れてしまうつもりだった。
それなのにまた出会ってしまった。二度と会いたくないと思うほど愛した人に。
「彼、北王子真人くんね。コーヒーを仕入れてる会社の担当さん」
コーヒー好きがこうじて定年退職後にカフェを始めた鼻の下に小さく髭を生やしたオーナーが、カウンターを挟んで向かいにいる人物に俺を紹介した。
「で、彼は先週からここの雇われ店長になった佐川玖くん」
そう言ったオーナーに肩に手を置かれなかったら、全速力で走って逃げていたかもしれない。
「…………」
お互いになかなか聞き間違えられない名前だ。しかも忘れづらい。二度と会いたくないと思っていた人が突然目の前に現れてしまった。
「あれ? もしかして知り合い?」
何も発しない俺と真人に違和感を覚えたのか、オーナーが俺に聞いた。
「いえ」
否定すると、真人は目を細め、不機嫌なときの顔をした。
「あっそう。もう僕も年だからさ、店を切り盛りするのは彼に任せたんだよ。玖くん常連だし、コーヒー詳しいし、暇そうだったから」
……オーナー、余計なことは言わないでくれ。
真人がオーナーに向かって愛想良く頷いた。
「……なるほど、そうだったんですね。これからよろしくお願いします」
真人に手を差し出され、握ったが、凍えるような温度を感じた。
「じゃ、僕孫のお迎え行くから。玖くんあとよろしくね」
「……は、はい」
二人にしないでほしい。そう目で訴えたが、オーナーは上着を掴むとあっさりと店から出て行ってしまった。
「て、転職したんだ?」
カウンターテーブルに置かれた名刺を受け取ったが、手が震えてしまった。
「お前のせいで前の会社には居づらくなったからな」
「…………」
「お前は一人で逃げてこんなところでのんびりとしていたのか」
「……違うんだ。これは流れで」
慌てて否定したが、真人の不機嫌は変わらなかった。
「流れ? 勝手にいなくなって、まさかフラフラしてたのか?」
「…………」
真人にあんな酷いことをしたくせに、毎日大好きなコーヒーを飲み続け、通っていたカフェのオーナーに誘われるまま店長になったとは言えなかったが、真人はすでに気がついているようだった。
「ここでは勝手にいなくなったりしないんだろうな?」
「……しないよ」
そのつもりだったけど自信がなかった。
まさか真人がこの店にコーヒーを卸している会社に転職してるとは思わなかった。知らずにこの店の常連になって、この店ですれ違い続けていたなんて。
……しかも、この期に及んであろうことか、運命を感じてしまった。
だって日本はこんなに広いのに、こんな小さな町の小さな店で再会してしまうなんて、運命としか思えない。……でもだめだ。俺はもう二度と真人と付き合えないんだ。運命と勘違いすることさえ許されないんだ。
でも真人から目をそらせなかった。
だって、何も変わっていない。四年前に一瞬で愛してしまった顔だ。
眉毛は凛々しくて目尻が垂れた二重で、正面から見れば存在感のない鼻は横から見ると驚くほど高いし、唇は厚くキスをすると柔らかくて毎回ときめいてしまうんだ。
それと抱きしめられると包容力で安心してしまう体格。ミスばかりの優しさに俺にいつも怒らずに接してくれた優しい性格。
どこを取っても好きにならざるを得なくて、この人を独り占めにできるなら何でもすると思った四年前の自分を一瞬で思い出してしまった。
「今度は俺がお前を目茶苦茶にする番だと思わないか?」
そう言って真人が自分の左肩に触れた。それを見た途端、胸が痛んだ。
あんなに優しかった真人の目が怒っている。
「…………」
恨まれるのは仕方ない。恨まれても仕方ないことをしたんだから。
「なんか玖くん怯えてない?」
「え?」
カウンター席に座り、俺の仕事ぶりを見ながら、ゆっくりとコーヒーを飲んでいたオーナーに突然言われた。
「まぁさ、店長になったからプレッシャーを感じてるのかもしれないけどさ、リラックスしてやってくれればいいから。どうせこの店は僕が楽しむために作った店だし」
「……はい」
違うんです。視界の端のテーブル席でこちらを睨んでいる人がいるんです。
「玖くんを店長に抜擢したのはさ、コーヒーに詳しいからだけじゃないんだよ。玖くんならお客さんが安心して通えるお店が作れると思ったからなんだよ」
違うんです。俺は本当はそういう人間じゃないんです。
「だから無理しないで頑張ってね」
「……はい」
オーナーの優しい心遣いと微笑みに泣きそうになった。
「頑張ります」
……ごめんなさい。違うんです。俺は本当にそんな人間じゃないんです。
四年前、俺は恋人だった真人を殺そうとしたんです。
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