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その男子生徒の名前は佐久間 雪人と言った。3年生だった。両親の仕事の関係で海外にいたらしくつい半年前程に帰国しこの高校へ編入してきたらしかった。
入部して数ヶ月程経った頃、倉庫で大道具の片付けをしていると雪人に話しかけられた。
「透はどうして演技しないの?」
部内では先輩、後輩関係なく親密さを深めるために下の名前で呼び合うのが通例だった。上下関係の厳しかった中学では考えられない。しかし何よりも雪人の綺麗な唇から自分の名が紡がれるのは何回聞いてもなかなか慣れなかった。
「俺、演技経験ないですから。でも見るのは好きなので裏方で十分です」
わざと目が合わないように道具を片す手を止めることなく答えた。
「透が裏方に入ってくれるようになってから格段に動きやすくなった。あれは演者の動きを実際にやってないと出来ない」
「ありがとうございます。でも周りのみんなの動きを見よう見まねでやってるだけです」
「本当かなぁ?」
普段の雪人はどこかふわふわとした掴みどころのない雰囲気を持っていた。追求こそされなかったが全てを見透かされているようだった。
演技をしたことないなんて大嘘だ。
途中で辞めてしまったけれど中学でも演劇部だった。
今だって誰かを演じたくてうずうずしてる。
毎日のように雪人の天才的な演技力を目の当たりにしているのだ。一緒にやり合いたくて仕方ない。
でもまた舞台に上がったらアイツと会う日が来るかもしれない。いや来るだろう。きっと今でも演劇を続けてる。
どんな形でも演劇に携われればそれでいい。
また突っ走って、勘違いして、一人傷つきたくなかった。
しかしそう決意したのも束の間、文化祭公演の二週間前になって準主役の生徒が事故で足を捻挫し舞台に立てなくなった。
準主役という役柄上、今から脚本を書き直すのは無理だった。急いで代役を立てねばならない。
「透がいいと思う」
代役選びに難航している中、主役の雪人が鶴の一声を上げた。
部員全員がこちらを向く。
「演技したことあるの?」「大丈夫か?」普段は温厚な生徒たちも講演直前ということでピリついた視線を感じる。
確かに難しい役だった。台詞量もかなり多い。
それに何より演技はもうしないと決めたのだ。断ろうと口を開いた時ー
「演技したことあるってこの前言ってたもんね?とりあえず一幕までやってみよう。台詞は頭に入ってるでしょ?」
雪人がよく通る声で言った。
嘘をついていたことはやはり見抜かれていたようだ。
「はい…まあ一応」
全員に縋るような目で見つめられ渋々そう答えるしかなかった。
久しぶりの演技で最初の一言目こそ緊張したもの、雪人との掛け合いになるともう夢中だった。気づけば通しで全て演じ切っていた。
「はぁはぁ…」
汗が滴り落ちる。
興奮がおさまらず呼吸が落ち着かない。
他の部員からも拍手が湧いた。
「お疲れ様。はい、タオル」
「ありがとうございます」
雪人の手からフェイスタオルを受け取った時、手が滑った。久しぶりに誰かを演じた歓びに体が震えているのだ。
「やっぱり透の演技はすごかった。まるでカメレオンみたいだ」
タオルで顔を拭く手が止まった。
この言葉を言われるのは初めてじゃない。
まさかまた言われるなんて思っても見なかった。
あの頃の思いが、熱情が蘇ってくる。
雪人の顔が一瞬アイツの顔と重なった。
頬が熱くなっていく。きっと今耳まで真っ赤だ。
稽古を終えてからしばらく経っても胸の鼓動が落ち着かない。演技を終えた興奮だけではないのだとさすがにわかった。
部室を去っていく雪人の後ろ姿を見つめながら拳をつくると強く握りしめた。
勘違いするな
そう何度も自分に言い聞かせた。
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