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43.白い森
「すごい……身体が、どんどん軽くなる……」
僕は自分を包む水を見つめる。
なめらかな水はまるで穢れを払うように、僕の身体から悪いものを抜き取っていった。内部のことは見えないから分からないけれど、精霊の泉に沈めた部分がジンジンする。
僕は心臓までその水に浸かってみた。
いつまで持つか分からないと言われていた僕の命のバッテリーが満ち満ちていくのが分かる。これはきっと本物だ。
「アニタさん、すごいです!別人みたいだ!」
「あまりはしゃぐなよ。滑って転ぶぞ」
さすがに死んだ人間は生き返らせることが出来ない、と真顔で笑えないこと言うから、僕は黙って泉から引き上げた。
母もこの泉を頼っていたのだろうか?
地下世界で生まれたと言っていたから、存在は知っていたはずだ。しかし、どうして彼女は地上へ出て行ってしまったのか。祖母の話では、病弱だったらしいけれど……
「あの、」
小さな声で話し掛けると、アニタは仏頂面で振り返る。
「どうした?」
「えっと…母も、地下世界で育ったと先ほど伺ったんですが、僕の知る限りでは……母はとても身体が弱くて…結局僕と同じようにマルムを患って死んでしまいました」
「………そのようだな」
「どうして、母は地下世界を出たんでしょうか?」
アニタは少しだけ目を細めた。
そして、記憶を辿るようにそっと遠くを見つめる。
彼女の澄んだ瞳が向けられた先には白い木々が並んだ小さな森があった。雪が降っているのかと初めは思ったけれど、どうやら葉の色自体が白いようだ。地上では見掛けない品種だから、地下世界特有の植物なのだろうか。
「あれは、死骸の森と呼ばれる場所だ」
「しがい……?」
「地下世界で死んだ者たちは皆、あの場所に埋葬される。お前の父親であるエイダもあそこで眠っている」
「………!」
息を呑む僕の目を見据えて、アニタは言葉を紡ぐ。
「精霊王だった君の母親が地上へ出た理由は、精霊王としての定めを嫌ってだと言ったが…正確には違う」
「え?」
「君の母親、メイリーンは敵討ちのために地上へ出たんだ。夫だったエイダを殺した憎き獣を討ち取るために」
「どういうことですか…?父は殺されたんですか?」
獣、という言葉を聞いて僕の胸はざわついた。
それは暫く姿を見ていないあの愛おしい狼を思ってのことだったけれど、僕は何故か、自分が聞いてはいけない話に足を踏み入れていると感じた。
「エイダは地上を散策している時に瀕死の獣に遭遇して、正義感から治癒しようとした」
「それは泉へ案内して……?」
「いや、持っていた泉の水を分け与えようとしたんだ。しかし、獣たちは豹変して、エイダを殺して水を奪った」
「………そんな、」
会ったこともない父の死に際を想像して、その惨さに言葉を失った。
アニタは目を伏せたまま、淡々と話し続ける。彼女の話によると、精霊王だった母に命を手に掛けることは許されず、亡き夫の恨みを晴らすために母はその地位を捨てて地上へ向かったということだった。
母は憎き獣を討ち取ることは出来たのだろうか?
どういう流れで僕を育てた男と一緒になったのかは分からないけれど、母が心残りなく人生を終えられたのなら良いと思う。その遺体を、地下世界へ戻せなかったことは悲しいけれど。
「獣は野蛮で、穢らわしい」
「………皆がそうではありません」
「これが地下世界が獣人どもを受け入れない理由だ。エイダは狼の番に殺された、忘れるな」
「狼……?」
思い出したのは黄色く光るダリアの瞳。
月が満ちた翌日の、人が変わったような荒々しい姿。
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