過ぎた春へと手を振った

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──後悔、懺悔、遺恨、哀惜。二つ折りにした紙にはそんなことばかりが書き綴られている。かの夏の日、私は思いを寄せる彼に文通を申し込んだ。「連絡手段が星の数ほどあるこのご時世に手紙ですか」と彼は笑った、燦々と降り注ぐ日差しに似つかわしくない色の抜けた白い肌が私の言葉を受けて朱が差すことが堪らなく好きだった。 ……自我に色づけられた生の香りのしない彼からは、いつも薄く嗅ぎ慣れない香の匂いがしていた。 私は筆を執った。 一通目にはあなたのことが知りたいと書いた。返事には、知らないことは無いだろうと書かれていた。 外には雪が舞っていた。 二通目には自分の好きなものについて書いた。返事には、素敵な手紙をありがとうと書かれていた。 雪はしんしんと降り積もる。 三通目には今日の庭の様子を書いた。返事には、また君の家に行きたいと書かれていた。 庭には椿が咲いていた。 四通目には、ならばおいでと書いてみた。返事には、機会があればいつか必ずと書かれていた。 椿の花が、こちらを見ていた。 五通目には椿の花の写真を入れた。返事はまだ無い。 私は待った。 私は待った。 椿の花が項垂れ落ちて、赤色が土に還るまで待った。桜の花が吹雪き、向日葵の背の丈が伸びて天を仰ぎ、彼岸の花が紅い波を作るまで待った。 そうしてまた椿の花が咲く頃、一通の手紙が届いた。 『お元気ですか、この手紙が届くころには俺はもう住所の住まいには居ません。遠い遠い、とおいところへ行きます。顔を見て話せなくてすみません。いつか家を訪れるという約束を叶えられなくてすみません。 あなたが文通を申し出てくれて良かった。俺は意気地なしだから、あの時二度と会えなくなると顔を見て伝えられなかった。声に出したらあなたの輝いた眼が曇るのは分かりきっていたから。すみません。 俺はあなたの手紙を貰ってからなるべく自分の名残を残さないようにしました。あなたがいずれ居なくなる俺の一部を抱えて生きていくことにならないようにしました。そうすればあなたはいずれ、俺のことを忘れて生きていける。俺はあなたから貰った思い出を抱えて去れる。 身勝手を働いてすみません。あなたの期待にも、思いにも添えられなくてすみません。 束の間触れ合ったあなたの心がこれからも健やかでありますように。ただそれだけを願っています』 「──……」 私は黙って上着のポケットの中にその手紙を入れた。そうして、それを羽織って雪が降り続く庭へ向かう。 自分のことを語らなかったのも、明確な約束をしなかったのも、手紙が届かなくなったのも。全て、すべては彼の優しさだった。手紙には身勝手だと書き綴られていたが、そのようなことがあるものか。 「──……」 ポケットの中の軽く、なにより重い質量が私を苛む。 このままその重さに逆らわずこの場に崩れ落ちてしまおうか。大声で泣いてしまおうか。そうすればその声で、もう一度彼が戻って来てくれやしないだろうか。 だけどそんなことは出来ない。 彼はきっと、それを望んでいないだろうから。 だから私は白い息を吐いてポケットを撫でた。 そうして薄く濁った空を見上げ、呟く。 「今年の椿も綺麗ですよ」 届け、届け。届けられなかった手紙の続きと、想いの分まで。
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