桜花

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桜花

『時間は水のやうに流れてゆきます。毎日を生きるのがせいいつぱいです。こんなことを書いては君に笑われてしまうでせうか。早く、君に会いたいです。』  凛は読み終わった手紙をぎゅっと胸に押し当てた。  机の上では二人で撮った写真が夕日に照らされている。 ((すぐる)さん……。私も、早く会いたいです)  陽の差し込む窓を覗き込み、優の家を眺める。  小さいころから遊んでくれた年上の幼なじみ。頭が良くて背も高く、誰に対しても優しい。一人っ子の凛にとって優は頼れる兄であり、誇らしくも優の恋人だった。  けれど、彼はもう向かいの家にはいない。ちょうど一年前、招集に逆らえるはずもなく戦争に行ってしまった。笑って汽車に乗り込む彼を、止められるはずもなかった。  ――(りん)さん、行って参ります。  大人は皆、お国のために死になさいというけれど。優に生きて帰ってきてほしいと願う自分は間違っているのだろうか。 『先日物資を運んでいたところ、白い子猫を見つけました。怪我をしていましたし、わずかばかりの癒しになるかと思ひ、基地に連れ帰り可愛がつています。 そういへば、私の家で飼つている猫の名前を凛さんには頑(かたく)なに教へていませんでしたね。何故か今になつて、教へようといふ気概が湧いてきました。我が家の真つ白な可愛い猫は、リンといふ名前です。凛さんに会へない夜はリンになぐさめてもらつていたといふわけです。お気を悪くされたらすみません。 追伸。あまり戦争の話はしたくないのですが、基地の人間は体当たり攻撃もやむなしと見ています。特攻隊が編成される場合には、私は進んで志願しやうと思います。』  凛の通っていた学校が焼けた翌日。  受け取った手紙に、凛は思わず叫び出したくなった。別れの時が刻々と近付いていることから目をそらすことが出来ない。喉がはりさけてしまうほど、「死なないで。帰ってきて」と優にすがりたい。けれど、それは叶わない。そんなことをしては、優が帰ってきても自分は牢獄の中だ。  凛は落ちる涙をそのままに筆をとり、手が動くままに返事を書いた。 『便箋に滲んだやうな跡があり、心配になりました。実は濡れた手で便箋を触つてしまつたとか、そういうことならいいんですが。君が同じ空の下で泣いているといふのにその涙を拭えないのは、あまりにも悲しいことです。私の言葉が君を泣かせてしまつたのなら、戦争の話はやめにしませう。 リンは元気ですか? 私の代わりに様子を見に行つてくれると嬉しいです。それと、私の部屋から君と二人で撮つた写真を持つてきて、手紙と共に送つてください。君の顔を見れば、私はたちまち元気になるでせう。 君の顔が見たくて、君の声が聴きたくて、君をこの腕に閉じ込めてしまいたくて、たまりません。どうか君が、一人で泣きませんやうに。』  戦闘機の轟音と、ぴかぴか光る空に怯えながら手紙を見つめる。血みどろになった母が、防空壕は危ないと言った。あなたは家にいなさい、と。それからぷつんと糸が切れたように母は息絶えた。今も玄関で濁った目を天井に向けている。 (空襲が終わったら、優さんの家に行って、手紙を書いて……早くここを離れなきゃ)  このままここに住み続けるのは危険だ。どこか安全な場所へ疎開する必要がある。  凛は胸ポケットに入れていた写真を取り出し、薄暗闇の中で眺めた。優は凛たちを、大切な祖国を守るために戦っている。国家に忠誠を誓った勇ましき軍人だ。凛は滲んできた涙をぐいっと拭った。一人で泣いてはいけない。  轟音に負けないくらい声を張り上げて、凛は優を見送ったときの軍歌を歌った。 『大きな空襲があつたと聞いたので、君が返事をくれてとても安心しました。つらいことばかりでせうが、痛み分けを出来ないのが悔しくてなりません。 また君を泣かせることになつてしまいそうですが、どうかお許しください。 本日、特攻隊へ志願しました。まだ出撃命令は出ていませんが、いつまで君に手紙を書いていられるか分かりません。けれど、ひとつ。もう私たちが生きて再会することはできますまい。その前に、写真ではなく本物の君に会いたかった。それだけが私の唯一の未練です。』  1944年10月25日 若槻優一飛曹、駆逐艦に突撃。特攻死が確認される。 『凛さん、もう一度会つたときには、私と結婚してください。』  咲くもよし 散るも又よし 桜花 ―完―
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